伊勢街道巡り旅 実践編~田丸城跡
1月中旬、帰省の帰りを利用して田丸城跡を訪れた。昨年二度の伊勢街道巡り旅をすることで、かつてはここ田丸というところが、松坂、白子と並んで、紀州藩の領地であったことを知り興味を掻き立てられた次第。
新宮から特急南紀4号に乗り、多気で参宮線鳥羽行に乗り換え、田丸駅で下車したのは11時41分だった。JR田丸駅は小さな無人駅だが観光案内所もあり、最近建て替えられたと見えて駅舎はきれいだった。
- 田丸駅
- 観光案内所
- 田丸駅
駅前を左に向かうと標識があり、ここ玉城町は「伊勢本街道と熊野街道が交わる熊野古道伊勢路の出立ちのまち」との紹介がある。「新宮まで158㎞」との案内もあり、なんだかうれしくなる。さらに歩を進めると間もなくお堀が見えて、堀に沿って行くと、虎口に行きつく。
田丸城の歴史
1336年に 北畠親房が築いた中世の城が起源で、その後、織田信雄などの武将によって近世城郭として整備された。現在は天守など建物は残っていないが、石垣・堀跡・天守台跡が良好に残り、往時の構造が感じられる。
1336年に 北畠親房が築いた中世の城が起源で、その後、織田信雄などの武将によって近世城郭として整備された。現在は天守など建物は残っていないが、石垣・堀跡・天守台跡が良好に残り、往時の構造が感じられる。
田丸城の虎口
枡形虎口
田丸城では枡形虎口という高度な防御構造が採用されている。 これは出入口を二重の門で構成し、その間に四角い空間(枡形) を設ける形式で、侵入してきた敵を枡形内に閉じ込め、四方から攻撃できる仕組みである。つまり、直線的な侵入を防ぎ、 進路を屈曲させることで防御力を高めている。
田丸城では枡形虎口という高度な防御構造が採用されている。
石垣
虎口の両側には高い石垣が築かれている。田丸城の石垣は野面積みから打込接ぎへと発展した技術が見られる。石垣上から侵入者を攻撃できる構造となっている。
虎口の両側には高い石垣が築かれている。田丸城の石垣は野面積みから打込接ぎへと発展した技術が見られる。石垣上から侵入者を攻撃できる構造となっている。
主要な虎口
大手虎口(正門)は、城の南側に位置する正式な出入口で、最も厳重な防御が施されている。
登城路は意図的に屈曲させられ、直進できない設計になっている。搦手虎口(裏門)は城の北側など、大手と反対側に設けられた出入口で、平時は通用門、有事には脱出路として機能した。大手ほどではないものの、しっかりとした防御構造を持っている。
時代による変遷
田丸城の虎口は築城時期によって特徴が異なる。
南北朝時代(北畠氏時代)は、初期的な虎口構造であったが、織豊期 (織田信雄時代)になると、石垣を用いた本格的な虎口が整備され、江戸時代(稲葉氏・久野氏時代)には、さらなる改修と強化がなされた。
南北朝時代(北畠氏時代)は、初期的な虎口構造であったが、織豊期 (織田信雄時代)になると、石垣を用いた本格的な虎口が整備され、江戸時代(稲葉氏・久野氏時代)には、さらなる改修と強化がなされた。
その他防御技術の工夫
横矢掛かり: 石垣を折り曲げて側面から攻撃できる構造になっている。
狭隘な通路: 大軍の一斉侵入を防ぐため、通路幅を制限している。
見通しの制限: 内部が見えにくい構造で、守備側に有利な設計となっている。
田丸城跡は国の史跡に指定されており、 虎口の遺構は現在も良好な状態で残されている。 特に石垣は当時の姿をよく留めており、 戦国時代から江戸時代にかけての築城技術の変遷を観察できる貴重 な史跡となっている。
本丸跡
田丸城の本丸は城の最高所に位置し、 城郭の中核をなす最も重要な曲輪である。 標高約50メートルの丘陵頂部に築かれており、 周囲を見渡せる優れた立地となっている。
田丸城の本丸は城の最高所に位置し、
本丸跡の主な特徴
1. 石垣
本丸を囲む石垣は田丸城の中でも特に見応えがある。高さは、最大で10メートル以上の高石垣。積み方は、野面積みから打込接ぎへの技術的変遷が見られる。織豊期の技術、特に織田信雄時代の改修により、本格的な石垣が築かれた。石垣の隅部分には強度を高める算木積みという技法が用いられている。
- 天守台跡
- 本丸御殿跡
- 富士見門
2. 天守台
本丸には天守台の遺構が残されている。織田信雄が築いたとされる三層の天守があったと伝えられている。現在は天守台の石垣が残り、その上に立つことができる。天守台からは伊勢平野や熊野灘を一望できる絶景が広がる。
3. 本丸御殿跡
本丸御殿跡は、城主の居館である本丸御殿が建っていた場所である。現在は平坦な広場となっており、礎石などの遺構が確認できる。江戸時代には政庁としての機能も果たしていた。
4. 富士見門跡
本丸への入口である虎口の遺構で。枡形構造を持つ厳重な防御施設だった。この門から富士山が見えたことから「富士見門」 と呼ばれたとされている。
実はあまり期待していたわけではなかったが、思ったより立派なお城であった。何より、この地、田丸がかつて紀州藩の領地でったということ、そして、ここ田丸が熊野街道と伊勢街道を結ぶ起点であったことに、ある種の感動を覚えた。










