伊勢街道巡り旅 実録篇9.〜内宮

せっかくのお参りなので少しは事前に調べて行ったが、実際に行ってみると、まぁ神宮は奥深い。ちょっと調べたくらいでは、なかなか追いつかない。行ってみて知ること、気がつくことも多く事後の学びも必要である。ということで、正直言うと、旅が終わってから調べなおしたことを付け加えてレポートしている。

言い伝えによると、内宮では参道の右側を歩くのが正しいとされている。理由は、正宮が参道の左側にあるため遠くから近づくのが作法ということらしい。一方、外宮や一般的な神社では左側通行となっている。

宇治橋を渡りきると、一の鳥居で一礼をしていよいよ神の領域に入る。正宮に向かって歩いて行くと右手に手水舎がある。ここで、作法に従って手と口を清める。暫く歩を進めると右側に先ほど渡った五十鈴川が見えてくる。お清めは手水舎ではなく、この五十鈴川の手洗場で行ってもよいらしい。但し、そのようなセッティングも案内もあるわけではない。お清めを済ませ歩を進めると右手に別宮の一つ風日祈宮に向かう道に出る。ここは後でお参りすることにしてさらに内宮へと向かう。

外宮と比べるとさらに広い敷地のため少し時間がかかる気がする。やがて多くの人だかりが見えてきた。行く手の左側がどうやら正宮らしい。これからお参りする人は、心構えをしているのだろうか。お参りを済ませた人は、この場を去り難いのだろうか。多くの人が混然一体となって群れている。

最初の写真の少し長い階段を息を切らしながら登り詰めたところが目指す正宮である。

正宮に向かって登る階段の、左の石垣の一番下にあるひときわ大きな石が気になる。実は最近、お城に興味が湧いてきて、特に、石垣が気になっている。あとで、社務所にでも寄って聞いてみることにしよう。


内宮について神宮司庁発行のパンフに書かれている説明は次の通り。

皇大神宮(内宮)

神路山(かみじやま)島路山(しまじやま)の麓、五十鈴川のほとりに鎮まります皇大神宮は、わが日本国の象徴と仰ぐ天皇のご先祖であらせられる天照大御神をお祀りしています。垂仁天皇の御代、伊勢の地ご鎮座され、今も変わらぬお姿でこの地にお静まりになっています。
国の内に隅無く光が照り徹ると称えられる大御神の御霊代として奉じる神鏡は、皇孫 瓊瓊芸命(
ににぎのみこと)高天原からお降りになるとき、民の食料となるべき斎庭(ゆにわ)の稲穂(高天原の清らかな稲の種)と共に地上にもたらされました。ここに祖国日本の礎が固められたのです。


大御神は宝鏡を授けられ、「この鏡は私を見るがごとくにまつれ」と命じられた。さらに高天原でお育てになった稲穂を授けられ、米をつくる暮らしが、この国の繁栄と平和をもたらすとお教えになられた。この御祝福の言葉は「天壌無窮神勅」と呼ばれる。

瓊瓊芸命(瓊瓊杵尊)に授けられた宝鏡は八咫鏡と呼ばれ、天皇が天照大御神をお祀りするご神体となっている。八咫鏡は代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていたが、崇神天皇の御代になるとお側でお祀りすることに畏れを抱かれ、皇居を出られ、大和の笠縫邑神籬を立ててお祀りすることになった。

そこでは、天皇にお代わりして、豊鍬入姫命が大御神をお祀りしていたが、垂仁天皇の御代に、倭姫命が新たに大御神をお祀り申し上げるにふさわしい地を求められることになった。倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡られた後、伊勢の国の度会の地、宇治の五十鈴の川上に到られ、大御神のお教えのままに「」をたててお祀り申し上げることになった。

今からおよそ2000年前のことである。祠はとも書き、という意味で、お祭りに際してその都度新たにたてられる建物のこと。神籬や祠のように臨時にたてられる建物が、神の宮、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武天皇から持統天皇の御代にかけてのことと考えられている。20年に一度の大祭、神宮式年遷宮もその時代に始まった。

別宮
内宮の神域内にはふたつの別宮がある。荒祭宮(あらまつりのみや)と風日祈宮(かざひのみのみや)である。ほかに域外に12の別宮がある。これらについては、後に別記事で紹介したい。

神宮内のお社
神宮内には正宮、別宮のほかに、瀧祭神(たきまつりのかみ)、御酒殿(みさかどの)、由貴御倉(ゆきのみくら)など多くのお社があり、正宮脇の小径沿いに立つ御稲御倉(みしねのみくら)や外幣殿(げへいでん)では神宮独特の神名造を間近に見ることができる。また、忌火屋殿(いみびやでん)は神饌の調理を行うところで、忌火屋殿前の祓所(はらえど)ではお祭りの際の修祓(しゅはつ:清めの儀式)を行い、参道沿いにある五丈殿では摂社・末社の遥祀などが行われる。

~つづく~

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です