伊勢街道巡り旅25.~大黒屋光太夫
ロシアを見てきた最初の日本人・大黒屋光太夫
江戸時代、鎖国政策を徹底させるため、幕府は一般の人々が外国についての知識をもつことを厳しく禁じていた。しかし、例外はあって、漁船や廻船が時化のため外国へ流されるのはしかたのないことで、中国や朝鮮などへ漂流した人がたくさんる。
1783年1月(天明2年12月)、現在の鈴鹿市の南若松という地に生まれた大黒屋光太夫は、船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風に遭い航路を外れる。7か月あまりの漂流ののち、一行は日付変更線を越えてアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着した。
北へ流されて小さな島で寒さや飢えと闘いながら4年間をすごしたあと、ロシアに渡った。彼を日本語学校の教師に、というロシアの望みをふりきって帰国願いを繰り返し、数年後、ついに帰国の許可を得た。
ロシアで世話になった人の息子アダム・ラクスマンが、日本との貿易を求める使節となり、寛政4年(1792)9月、光太夫を連れて北海道の根室に着いた。しかし、前例のないことに幕府は大混乱となって、使節と役人の長い交渉ののち、松前で光太夫が幕府側に引渡されたのは翌年6月のことだった。
ロシアを見てきた最初の日本人として、彼は将軍や老中松平定信の前で様々な質問を受けたが、彼はそれに的確に応えた。ロシアでも名を知られていた蘭学者の桂川甫周は、光太夫の知識をもとに『北槎聞略』という書物を著したが、甫周を満足させるだけの見聞を一介の商人である光太夫がしてきたことは驚くべきことである。
鎖国政策を守ろうとする幕府は、彼を危険人物のように扱い、江戸番町の薬草場へ閉じこめてしまった。ロシアの女帝エカテリナ2世に謁見し、勲章までもらった彼だったのだが。
煙草と帳面を離さなかったという彼。彼はどんなつもりで見聞きしたことを書き留めていたのだろうか。当時はヨーロッパ諸国が本格的にアジアに進出し出した時代。もしかしたら光太夫は、そうした世界の波を敏感にかぎとって、彼の得た知識を日本に伝えるために帰ってきたのかもしれない。


