水野忠央~新宮城主

水野忠央(みずの ただなか)- 9代新宮城主
生年: 文化11年(1814)10月1日生まれ、
没年: 慶応元年(1865)2月25日に新宮城で死去。享年52(満50歳没)

家系背景: 水野家は徳川家康のいとこを祖にもつ名門で、初代重仲は家康の母方の従兄弟にあたる。紀州徳川家の付家老として代々新宮を治めたが、付家老であるため陪臣の扱いを受けてきたという不満が水野家には常にあった。

政治的手腕
忠央は紀州藩の江戸詰め家老として、幕末政治の中枢で活躍した。4歳の藩主・徳川慶福(よしとみ)の補佐役として藩内の実権を掌握し、大老・井伊直弼や大奥と手を結び、慶福を14代将軍・徳川家茂とすることに成功 した。
大奥工作と人脈形成
忠央の政治力の源泉の一つは、巧みな縁戚関係の構築だった。妹のお広(お琴の方)を将軍家慶の側室として大奥に送り込み、4子を儲けることに成功。さらに、御小姓頭取・薬師寺元真と御小納戸頭・平岡道弘にも妹を嫁がせ、御小納戸の水野勝賢などに弟を養子入りさせたことで、幕府中枢に強固な人脈を築いた。
経済力の基盤
良質な熊野炭の商いで培った経済力が忠央の政治活動を支えた。新宮炭を満載した藩船は、江戸へ送られ、江戸の炭相場を左右したとされている。江戸へ送った熊野炭は年間15万俵近くあり、その量は江戸の消費量の3割にも達したという記録もある。
軍事・文化面での業績
洋式砲術や造船、操船術などを研究し、他藩に先駆けて西洋式軍隊の編成に改め騎馬式調練(丹鶴流)を採用した。紀州藩の実権を握っていた忠央は、洋式銃隊を編成し、和歌山湊御殿の馬場では実戦そのままの騎馬調練を行ったとある。新宮城下に火薬庫をつくり、丹鶴城の二の丸には常時500挺の鉄砲を備えていたなど、軍備の近代化に力を入れた。
学問・文化への貢献
早くから蘭語や英語、仏語などの原書を多く翻訳させ、文化人としても優れた才覚を見せたとされ、学問や学術に造詣が深く、歴史、文学、医学などの古典籍をまとめた書物『丹鶴叢書』を編纂・刊行したことで、江戸三大国書の一つとして高く評価されている 。
失脚と晩年
安政7年(1860)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が横死すると、旧南紀派の忠央は同年6月に失脚し、家督を嫡男の忠幹に譲って隠居することを命じられ、新宮城に幽閉されたことで、政治の第一線から退いた。隠居謹慎処分は元治元年(1864)に解かれ、同年8月には鶴峯と号したとある。
築城との関係
初代城主・水野重仲については、重仲は徳川家康の母方の従兄弟で、頼宣の後見役として3万5千石を領し、入部後ただちに城の改修工事を進めた。城は寛永10年(1633)に完成を見たが、その後も3代重上が石塁などを造築し、寛文7年(1667)、現在に見られる近世城郭が完成したとされている。
水野忠央は9代目として、この完成された城を居城としたが、豪傑肌の忠央は陪臣には禁じられていた鷹狩りを領内で行ない、新宮の全竜寺の門前に鷹部屋を設けるなど豪毅なところを示した人物だった。水野忠央は、政治家、軍事改革者、文化人として多面的な才能を発揮した、幕末期における紀州藩きっての実力者であった。

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