桑名城跡
天正19年(1591)、豊臣秀吉の家臣・一柳右近が桑名に入り、その4年後に伊勢神戸城の天守閣を移築して、揖斐川沿いに桑名城を築いた。これが現在の桑名城の原型になり、慶長6年(1601)、本多忠勝は桑名藩に入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始し、船着場の整備、4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞を立ち並ばせた。
城郭は本丸を中心に、二の丸、三の丸、内朝日丸などが堀で囲まれ、最大で97基の櫓が建ち並ぶ堅固な構造を持っていた。残念ながら、天守台跡は、現在、「崩落の危険があるため立ち入り禁止」となっている。
(写真はCGによる復元図)

 

桑名は古来より湊町として栄えた街で、歴代城主は東海道と水運を利用した町衆のための街づくりを行った。 桑名城は揖斐川を利用した水城で、かつては95の櫓を有する 「海道の名城」と称えられた。


蟠龍櫓
現在は石垣の一部と外観を復元した「蟠龍櫓」を見る事ができる。「蟠龍(ばんりゅう)」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。この「蟠龍」をかたどった瓦が置かれたことから蟠龍櫓と呼ばれ、七里の渡しに入ってくる船の監視などの役割を果たしていた。2003年に蟠龍櫓が外観復元され、1階は水門管理所、2階は展望台兼資料室として一般公開されている。

 

近くに東海道唯一の海路「七里の渡し」 がある。 大坂夏の陣で助け出された家康の孫・千姫と忠勝の孫・本多忠刻が出会ったのが七里の渡しであったと言われている。幕末は十五代将軍徳川慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬が幕府の中核として、政局を主導したが、鳥羽伏見の戦いで敗れ「朝敵」となる憂き目を見る。藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり、鎮国守国神社の神籤により一旦は抗戦と決定したが、無血開城となった。
桑名城は「徳川譜代最大の城」とも称され、徳川政権の安定に寄与した象徴的な城郭である。桑名城跡は、単なる遺構ではなく、戦国から江戸、幕末に至るまでの日本の政治・文化・交通の変遷を体現する貴重な歴史遺産である。

九華公園
新政府軍は辰巳櫓を焼き開城の証とした。城は
廃城となったが、昭和3(1928)、元桑名藩士で造園家の小沢圭次郎が「九華公園」として整備し、石垣や堀が遺構として残されている。また天守閣跡には定敬らが建てた戊辰殉難招魂碑が残る。なお「九華」とはかつて 「九華城」と呼ばれたことに由来する。 

桑名城跡は、春日神社や多度大社などの文化施設とも深く関わり、地域の信仰・祭礼・観光の中心地として機能している。桑名市博物館では、城と藩主の歴史を学べる展示があり、教育的資源としても活用されている。九華公園を歩けば、忠勝の築いた城の威容や、千姫の物語、東海道の賑わいが今も感じられるかもしれない。
~つづく~