伊勢街道巡り旅の「江戸橋」及び「斎宮」の記事に出てきた「伊勢別街道」でについて詳しく紹介したい。

伊勢別街道は、京都方面から伊勢神宮への参宮客が通った歴史ある街道で、江戸時代に大いに賑わった。現在も常夜灯や宿場町の面影が残り、文化的価値の高い道である。

概要
伊勢別街道は、別名「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれていた。
伊勢街道が四日市日永追分から伊勢へ至る主要道であるのに対し、伊勢別街道はその支道として、京都方面からの参宮客のために利用された。
関宿東追分で東海道から分岐し、津市芸濃町、一身田町などを通って、津の江戸橋で伊勢街道と合流する。総距離は約22km(約4里26町)。

歴史的な宿場と見どころ
街道には、楠原、椋本、窪田などに宿場が設けられ、参宮客で賑わった。
各地に参宮講社の寄進による常夜灯が残り、特に江戸橋常夜灯(安永6年・1777年)は有名である。
鈴鹿駅家跡は大化の改新後に設けられた駅制の遺構で、交通の要衝として重要だった。

歴史的変遷
室町時代、将軍足利義持や義教の参宮記録により、椋本から豊久野を通るルートが選ばれるようになったことがわかる。
「伊勢別街道」という名称は明治10年以降に定着しました。

現代の文化的価値
津市や三重県では街道の保存と観光資源化が進められており、ウォーキングマップや歴史街道として紹介されている。
街道沿いには伊勢木綿を製造する臼井織布など、江戸時代から続く文化も残っている。

この街道は、単なる交通路ではなく、伊勢信仰と地域文化が交差する歴史の舞台であった。

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斎王群行が通った関宿と鈴鹿峠(鈴鹿垰)について
斎王群行と鈴鹿峠の歴史的関係
鈴鹿峠の開通と斎王群行
仁和2年(886年)に近江から鈴鹿峠を越えて伊勢へ入る阿須波道という新道が開かれ、同年、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められました  (Rakuten Plaza) 。これにより、鈴鹿峠越えが東海道の本筋となりました。
それまでは伊賀から加太峠を越えて伊勢へ入るルートが東海道でしたが、鈴鹿峠ルートの開通により、斎王群行の道も変更されたのです。
鈴鹿峠の特徴
鈴鹿峠は伊勢と近江の国境をなす標高378メートルの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っています  (Kameyama-kanko) 。東の箱根峠と並んで、東海道の難所として知られていました。
関宿について
関宿の概要
関宿は東海道五十三次の47番目の宿場で、三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置しています  (Wikipedia) 。古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃には古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれていました。
街道の分岐点
関宿は重要な分岐点でした:
東の追分:東海道と伊勢別街道の分岐点で、ここにある大鳥居は伊勢神宮の内宮・宇治橋南詰の大鳥居が式年遷宮の際に移築されたもので、明治2年以降慣例となっています  (Wikipedia)
西の追分:東海道と加太越奈良道(大和街道)の分岐点で、西追分から西に進み、加太峠を越えて伊賀地方を経て大和国(奈良県)に至ります  (Matinamigurashi)
街並みの保存
関宿は1984年(昭和59年)12月に、面積25ヘクタールにおよぶ地区を対象に、全国で20番目・三重県では初となる国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました  (Wikipedia) 。東西約1.8キロメートルに及び、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家200軒あまりが残っています  (Suzukatouge) 。
坂下宿について
坂下宿の位置と歴史
坂下宿は鈴鹿峠の麓に位置し、その名もその立地に由来しています。慶安3年(1650年)の大洪水により壊滅し、1キロほど下流に移転して復興されました  (Suzukatouge) 。江戸時代には東海道五十三次の48番目の宿場町として、鈴鹿峠を往来する多くの人々で賑わいました。
斎王群行が通った道
斎王群行は、京都を出発し、近江を経て鈴鹿峠を越え、坂下宿、関宿を通過して伊勢の斎宮へ向かいました。関宿の東の追分から伊勢別街道へ入り、最終的に斎宮(現在の三重県多気郡明和町)に到着したと考えられます。
この道は、平安貴族の華やかな行列が通った歴史的な街道として、現在でも多くの史跡が残されています。