
街道巡り旅の最初の記事が「七里の渡し 伊勢国一の鳥居」であった。この記事を書いたとき、もう一つ「関宿東の ”一之鳥居”」があることを知ったので、いずれ書かなくてはと思っていた。ただ当初は付録にと軽く思っていたが、調べてみると大変重要であることが分った。そこで、出来るだけ詳しく書きたいと思う。
戦国時代から江戸時代、伊勢神宮へ向かう参詣者にとって、東海道を東(江戸)からやってきた人が必ず通るのが、桑名宿の七里の渡しであり、そこには“伊勢国一の鳥居“が建っていた。一方、東海道を西(京都・大阪方面)からやってきた人が必ず通るのが、三重県亀山市に位置する東海道五十三次の47番目の宿場町である関宿であった。
場所は、鈴鹿峠の東側、伊勢平野の西端に位置し、現在のJR関西本線「関駅」周辺である。関宿は、江戸時代には交通の要衝として大いに栄えた歴史的な町であった。旅人は、この “東の追分”で伊勢別街道に入り、南下して江戸橋経由で伊勢神宮を目指した。ここにも鳥居があり、”一之鳥居”として親しまれている。
“一之鳥居” というのは伊勢神宮に向かう最初の鳥居という意味で、伊勢神宮に向かう人々への “道しるべ” として建てられたものである。初めて建てられたのは18世紀の初め頃と考えられているが、当時は伊勢講の人々からの寄進により建てられ、関宿の人々によって管理される重要な地点であった。
関宿が重要だった理由は、東海道(江戸と京都を結ぶ幹線道路)、伊勢別街道(伊勢神宮への参詣道)、大和街道(奈良方面への道)の主要な街道が交わる地点だったことである。京都・大阪から出発した参詣者の多くが関宿で一泊するのが通例であったようだ。鈴鹿峠越えの前後で休息する旅人も多数いたらしい。宿場には多数の旅籠、茶屋、商店が軒を連ね、賑わいを見せていたと言われる。
さらに、斎王が京から伊勢へ行幸したときにもこの関宿を経由して伊勢別街道を通ったのである。その意味でも関宿は、重要な地点であったことを、斎宮を訪れた後で知った。
現在は20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮にあわせてこの鳥居も建て替えが行われている。鳥居の用材は式年遷宮で建て替えられた伊勢神宮内宮宇治橋東詰(内側)にある鳥居の旧材で、伊勢神宮から下請けを受けて、傷んでいる箇所の繕いをした後、住民総出の “お木曳” を経て建てられる。
名物
関の戸(せきのと)
関宿を代表する銘菓
あんこを求肥で包んだ和菓子
寛永年間(1624-1644年)創業の「深川屋」が元祖
関の地蔵院
通称「関地蔵」
日本三大地蔵の一つとされる
旅の安全を祈る参詣者が多数訪れた
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関宿は東海道五十三次でも有数の大規模宿場で、典型的な街道沿いの宿場町の形態を持っていた。
宿場の長さ(東の追分から西の追分まで)は、約1.8kmだった。そこに本陣と脇本陣(大名や公家など身分の高い人が宿泊)がそれぞれ2軒、旅籠が約42軒(最盛期)があり、道の両側に、出格子、虫籠窓など伝統的な建築様式の町家が連なっていた。なかには、卯建を上げた商家が多数あった。宿場内の人口は約2,400人であった。東の追分(東海道と伊勢別街道の分岐点)には、大きな常夜灯や道標が立っていた。
西の追分(東海道が西へ向かう地点)は古代からの要地で、古代三関の一つ「鈴鹿関」が置かれた地で、奈良時代から畿内を守る重要な関所であった。因みに地名の「関」もこれに由来している。ここには、関氏が支配する関城が築かれた。戦国時代には織田信長の勢力圏になった。江戸時代(1619年)に亀山藩の領地となった。参勤交代の大名行列も通過し、伊勢参りの隆盛により経済的に繁栄した。
関宿の名物と文化
多くの旅人が訪れたため、文化の交流点となった
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」にも描かれた
松尾芭蕉も通過し、句を残している
明治時代以降の変化
明治23年(1890) – 関西鉄道(現JR関西本線)開通 鉄道は宿場を避けて少し北に敷設
宿場町としての機能は急速に衰退 国道1号線の整備 自動車道も宿場を迂回 結果的に古い町並みが破壊を免れた
町並み保存
重要伝統的建造物群保存地区
1984年(昭和59年) – 国の重要伝統的建造物群保存地区に選定
保存地区の範囲:約25ヘクタール、約200棟
江戸時代の建物
関宿旅籠玉屋歴史資料館(元旅籠)
深川屋(和菓子店、江戸時代創業)
町並みの約70%が江戸~明治期の建物
本陣跡
川北本陣跡
伊藤本陣跡
関地蔵院
東追分、西追分の道標
百六里庭(ひゃくろくりてい)- 江戸から106里の地点
現在の関宿
観光地として「日本の道100選」に選定 約1.8kmにわたる江戸時代の町並みが残る
見どころ
虫籠窓、格子戸、うだつなど伝統的な意匠 タイムスリップしたような景観
関宿旅籠玉屋歴史資料館 江戸時代の旅籠を復元
関まちなみ資料館 関宿の歴史と文化を紹介
関地蔵院 約750年の歴史を持つ寺院
地蔵堂には重要文化財の地蔵菩薩立像
イベント
関宿祗園夏まつり(7月)
関宿街道まつり(11月)- 時代行列など
文化的価値
関宿では江戸時代の建造物が多数現存しており、東海道の宿場町の姿を最もよく残す町貴重な文化財である。その点で、江戸時代の交通網と伊勢参りという日本独自の信仰文化を物語る場所としても貴重な存在と言える。
関宿は、京都・大阪から伊勢神宮への参詣路として、無数の旅人を迎え送り出した歴史は、町並みに深く刻まれている。現在でも訪れる人々に、江戸時代の旅の情緒を感じさせてくれる、日本を代表する歴史的町並みの一つである。
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斎王群行が通った関宿と鈴鹿峠(鈴鹿垰)について、詳しく説明いたします。
斎王群行と鈴鹿峠の歴史的関係
鈴鹿峠の開通と斎王群行
仁和2年(886年)に近江から鈴鹿峠を越えて伊勢へ入る阿須波道という新道が開かれ、同年、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められました (Rakuten Plaza) 。これにより、鈴鹿峠越えが東海道の本筋となりました。
それまでは伊賀から加太峠を越えて伊勢へ入るルートが東海道でしたが、鈴鹿峠ルートの開通により、斎王群行の道も変更されたのです。
鈴鹿峠の特徴
鈴鹿峠は伊勢と近江の国境をなす標高378メートルの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っています (Kameyama-kanko) 。東の箱根峠と並んで、東海道の難所として知られていました。
関宿について
関宿の概要
関宿は東海道五十三次の47番目の宿場で、三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置しています (Wikipedia) 。古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃には古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれていました。
街道の分岐点
関宿は重要な分岐点でした:
東の追分:東海道と伊勢別街道の分岐点で、ここにある大鳥居は伊勢神宮の内宮・宇治橋南詰の大鳥居が式年遷宮の際に移築されたもので、明治2年以降慣例となっています (Wikipedia)
西の追分:東海道と加太越奈良道(大和街道)の分岐点で、西追分から西に進み、加太峠を越えて伊賀地方を経て大和国(奈良県)に至ります (Matinamigurashi)
街並みの保存
関宿は1984年(昭和59年)12月に、面積25ヘクタールにおよぶ地区を対象に、全国で20番目・三重県では初となる国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました (Wikipedia) 。東西約1.8キロメートルに及び、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家200軒あまりが残っています (Suzukatouge) 。
坂下宿について
坂下宿の位置と歴史
坂下宿は鈴鹿峠の麓に位置し、その名もその立地に由来しています。慶安3年(1650年)の大洪水により壊滅し、1キロほど下流に移転して復興されました (Suzukatouge) 。江戸時代には東海道五十三次の48番目の宿場町として、鈴鹿峠を往来する多くの人々で賑わいました。
斎王群行が通った道
斎王群行は、京都を出発し、近江を経て鈴鹿峠を越え、坂下宿、関宿を通過して伊勢の斎宮へ向かいました。関宿の東の追分から伊勢別街道へ入り、最終的に斎宮(現在の三重県多気郡明和町)に到着したと考えられます。
この道は、平安貴族の華やかな行列が通った歴史的な街道として、現在でも多くの史跡が残されています。