昨年、伊勢街道巡り旅を始めたときに、芭蕉が、近くの伊賀上野出身だと聞いていたのでいずれ詳しく知りたいと思っていた。今回、伊賀上野城を訪れるにあたりそれが実現できることになり嬉しい限りである。

お城をたっぷりと見学した後、すぐ近くにある芭蕉翁記念館に行き、俳聖と称された芭蕉についてその一生をなぞってみた。

松尾芭蕉の一生 — 伊賀に生まれ、旅に生き、俳諧を極めた50年
1. 誕生と伊賀での少年期(1644〜1662)
– 寛永21年(1644)、伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)に生まれる。出生地は上野赤坂町説と上柘植村説があり、松尾家の転居時期と重なるため確定していない。
– 父・松尾与左衛門は無足人(郷士に近い農民階層)で、芭蕉は次男として育つ。
– 幼名は金作、のちに通称甚七郎・甚四郎、名は忠右衛門→宗房と変遷し、俳号は宗房→桃青→芭蕉へと変わる。

この頃の芭蕉は、後年の漂泊の詩人のイメージとは異なり、武家に仕える道を歩み始めていた。

2. 藤堂家仕官と俳諧との出会い(1662〜1666)
– 1662年(18歳)、津藩藤堂家の侍大将・藤堂良忠に仕える。

– 良忠(俳号・蝉吟)とともに京都の北村季吟に学び、俳諧に触れる。
– 1666年、良忠が急死。芭蕉は深い影響を受け、やがて致仕して伊賀に戻る。

この時期、芭蕉は武士としての道を失い、精神的な空白と模索の中で俳諧へ傾倒していく。

3. 江戸での修行と蕉風の萌芽(1672〜1683)
– 1672年(28歳)、江戸へ下り、本格的に俳諧師としての道を歩み始める。

– 俳諧は当時、滑稽味の強い庶民の娯楽だったが、芭蕉はそこに精神性・自然観を持ち込み、芸術へと高める方向性を模索する。

江戸深川の草庵に芭蕉が植えた芭蕉(バナナの木)が繁ったことから、俳号を「芭蕉」と改めたのもこの頃である。

4. 旅の時代の始まり(1684〜1688)
芭蕉は40歳を過ぎてから、次々と旅に出るようになる。
– 1684年(40歳):『野ざらし紀行』
– 1687年(43歳):『笈の小文』
– 1688年(44歳):『更科紀行』
これらの旅は単なる観光ではなく、自然と人生の真理を求める精神的修行のようなものだった。

5. 『奥の細道』の大旅(1689)
– 1689年(45歳)、弟子・河合曾良を伴い江戸を出発。
– 東北・北陸を巡り、美濃大垣まで約2400kmを歩いた大紀行。
– この旅の記録が後の名作『奥の細道』となる。
「夏草や兵どもが夢の跡」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」など、芭蕉の代表句の多くがこの旅で生まれた。

6. 晩年の漂泊と最期(1690〜1694)
– 旅を続けながら門弟を指導し、蕉風俳諧を確立。
– 1694年(元禄7年)10月12日、旅先の大坂で病没(享年50)。
辞世の句として知られるのは、
「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
まさに「旅に生き、旅に死す」を体現した最期だった。

芭蕉の功績と文化的意義
■ 俳諧を芸術へと高めた
芭蕉は、滑稽中心だった俳諧に「幽玄」「さび」「軽み」といった美意識を持ち込み、精神性の高い文学へと昇華させた。

■ 旅と自然を通した独自の世界観
『奥の細道』は単なる旅行記ではなく、自然と人生の哲学を詠み込んだ文学作品として世界的にも評価されている。

■ 後世への影響
芭蕉の蕉風は弟子たちに受け継がれ、明治期の正岡子規による「俳句」成立にもつながった。

芭蕉の人生の核心
松尾芭蕉の50年は、「俳諧を通して真の風雅を求め続けた旅の人生」と言える。

伊賀の土豪の家に生まれ、武士の道を失い、江戸で俳諧を磨き、旅に出て自然と人生の真理を追い求めた芭蕉。その姿は、今もなお多くの人を惹きつけてやまない。

聖殿
松尾芭蕉の生誕300年を記念して1942年に建てられた国指定重要文化財。芭蕉の旅姿(旅笠、蓑、杖)を模したユニークな八角形木造建築で、殿内には伊賀焼の芭蕉座像が安置されている。

芭蕉略年譜(1644~1694)
1644 伊賀国に生まれる。長じて、宗房を名乗る。
1662 藤堂新七郎家の良忠(俳号は蝉吟)に仕える。
1672 上野天神宮に「貝おほい」を奉納する。この頃江戸に出る。
1675 俳号「桃青」を使い始める。
1677 この頃、俳諧宗匠になる。
1680 深川に移る。
1682 この頃、芭蕉(はせお)を併用し始める。江戸の門人たちが芭蕉翁と呼び始める。
1684 「野ざらし紀行」の旅に出る。
1689 「奥の細道」の旅に出る。
1694 大坂で亡くなる。享年、51歳。
1763 芭蕉70回忌。この頃、俳聖という呼称が広がり始める。