館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」51

春夫の「革命に近づける短歌」(一)
「急進党」「電気党」(比較的はやく普及した新宮の電気事情ではありますが、この頃はまだようやく電線がお目見えし始めた頃です)、と揶揄された春夫らでしたが、明治41年末に春夫は「革命に近づける短歌」を発表しています(「熊野実業新聞」12月18日付)。「急進」では収まらない「革命」という言葉を使って、短歌の世界の行く末を論じています。

明治41年末の春夫の短歌論調には、脱明星の色彩が濃厚で、例えば、前田夕暮(まえだゆうぐれ)の和歌の評価などにも表れています。夕暮は明治16年神奈川県の生まれ、中郡中学を神経衰弱のため中退、「中学世界」「中学文壇」「新声」などに盛んに投稿して文学的な関心を継続しました。明治37年上京して尾上柴舟(おのえさいしゅう)に師事、二松学舎などで学びました。若山牧水や三木露風も柴舟に師事していました。夕暮は、僅か2号で終わりましたが、「向日葵(ひぐるま)」を明治40年発行、「明星」の浪漫主義に対抗して鋭い批評を行い、注目されました。

43年処女歌集「収穫」を刊行して、自然主義歌人と目されていました。春夫も同調したわけです。「前田夕暮の歌は未成品かも知れない。然し僕は好んで近代人を歌ひ美を去つて真につく其の努力が好きだ」と口癖のように述べていました。その論調が「革命に近づける短歌」を書かせたのです。

そこで、春夫は三木露風が「文庫」誌上で「覚醒せざる短歌」という語で現今短歌を批評し、与謝野寛と応酬があったことに触れ、「露風、寛両氏は年令としては僅に十数年の相異にすぎない。然し其思想に至つては恐らく十数年の相異ではないであらう」と述べ、続けて「時代は猶予なく進歩して行く」としながら、「新しい時代の一部の青年は口々に強い文明の圧迫を感じて批評的となり神経過敏となつた冷やかな理性と若々しい青春の感情とはこヽに一種恐ろしく病的なる複雑なる思想を生んだ。

虚無思想とでも云ふか生きて居るに足るべき理由をも知らず然も死すべき理由をも見出し得ずまあパンでも喰つて居やうかと云ふ風な思想があまねく青年の胸に漲り渡つて忠君だの愛国だのと云ふ所謂健全なる思想は渠等の胸から次第にその影を止めずなつて仕舞つた。悪思想であるとは云ひ事実は事実である恐らく斯る青年に対して現代の教育は一篇の覚醒せる無名作家の短篇よりも勢力なきものではあるまいか。吾人はこヽに至つて転た悲壮の感なき能はなゐのである。」と、一部虚無的な青年へのむしろ同調、所謂「健全なる思想」への反発を内在させています。

「曰はく人生は不可解」という巌頭の感を残して、第1高等学校生藤村操が日光の華厳の滝から僅か16歳で身を投げたのは、明治36年5月22日のことでした。日露戦前の学生やマスコミ、知識人たちに大きな衝撃を与えました。春夫の頭にはこのことも刻まれていたに違いありません。

春夫の短歌に注目した初めての書『佐藤春夫の短歌』(木下美代子著・昭和51年刊)

三木露風の主張を要約しながら、「若い批評家は近代文学の要素は偽らざる自己そのものを表すことを外にしてこれなしと云ふ立場からして誇張されたる感情と絢爛なる文学とはた又現実を外にしたる内容とを斥けて、人生の真を歌へ。と論じたのは甚しく吾人の意を得たものである」と述べています。「青年が心酔する時代は去つて青年が批評する時代に達したのではないか」とも言います。

「偽らざる自己そのものを表す」という表現は、翌年夏に「偽らざる告白」と題して講演会に登壇し、物議を醸すことになる、その内容に直結していくものであろう。

ここには自然主義思潮を十分に吸収した短歌の在り方が説かれています。春夫の「短歌観」にとどまらぬ「文学観」の一端もほの見えています。時代思潮と深く係わる文学の在り方です。「革命に近づける短歌」には、冷めた目で「人生の真」を見ようとする態度への共感があり、当時の短歌の主流に近かった明星調への違和感、反感でもあります。反明星調と言ってもいい中央文壇への着目もうかがえます。換言すれば、芽生え始めている自然主義的な短歌への動向に対しての着目、目を自己の内面に向け始めたことの立証にもなります。

早速、「静観生」が「駄言録」を書いて、春夫文を批判しています(12月20日付「熊野実業新聞」)。批判の内容は、師である和貝に反発するなど、道に欠ける、というほどで、春夫の短歌観、文学観なりへの批判にはなっていません。小生意気な若造が、ほどの意識でしょう。春夫も「答へざる所以、其他」を書いて、即座に反応しています(12月24日付「熊野実業新聞」)。

「文壇の新思想」を知ろうと努力しているのだから、「僕は」「君等と」「下らん議論をして居るやうなそんなヒマを持たぬ」と言い、「一体熊野の歌人(?)なぞ云ふ連中に相当な短歌観でもあるのであらうか」と辛辣に問うています。そうして、「本月号の太陽に内藤晨露といふ人の短歌が発表されて居る。ちよつと紹介する。」とあって、

「「君、妻となれり」別れてまたあはず此一日よ心安きかな
 対ひ居て殺意すら胸を打つわりなし君に涙ながるヽ(引用者注・もとの内藤晨露の歌は「殺意ひたすら胸を打つ」で、春夫の引用ミス)
 「生きよ生きよ未知の友よ」と其書(ふみ)に博士は云へり痛く稚(おさな)し
 あヽさびしあらゆる人の侮(あなどり)を誹(そしり)をうけて一日生きたし 」

の4首の和歌を引用し、「吾人はこヽに有力なる味方をまた一人得た。○○(二字不明)時代思想はかくまで偽ることの出来ないものであるか。(春夫)」と結んでいます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です