館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」49

復刊「はまゆふ」とその挫折

徐福墓畔邸の記述が、上京後の大正時代の春夫に及んで長くなりましたが、ここで春夫や奥栄一の新宮中学時代に戻ります。

和貝夕潮(彦太郎)が新宮中学を卒業するのは明治40年3月、直後に新宮男子高等小学校に奉職しますが、その頃中野緑葉(匡吉)や坪井紫潮(英一)らが出していた回覧雑誌は、師和貝の梃入れで、月刊の謄写版「みどり葉」に変身し、新宮中学生の佐藤春夫や奥栄一も参加してきます。「みどり葉」2号の頃から、和貝宅での短歌会も始まったらしい。

「熊野歌壇の現在をあらしめた人として、和貝夕潮氏を忘るべからざる人である。氏が十年一日のやうに歌をつくつて発表し、後進を指導し、熊野歌壇を開拓した努力は、熊野歌壇に特筆していい程大きなものである。熊野歌壇の先輩中、氏は最も長く牛耳をとつた人であり、且つ最も永い間作歌した人である。当時醒庵、芦月など漸く熱を収め、夕ざめ、夕潮両氏によつて、僅かに新派和歌の存在を保つてゐた。その内和貝夕潮を主宰とする謄写版印刷の雑誌『みどりば』が発刊されるやうになつた。」(中野緑葉の「熊野文壇の回顧」・「朱光土」)

明治41年8月、復刊「はまゆふ」が刊行されます(10日・第2巻第1号・以下、表記が「はまゆふ」「浜ゆふ」など統一していない)。編輯発行人は和貝彦太郎(夕潮)、発行所は「濱木綿社」になっています。「濱ゆふ」と題する与謝野寛の歌5首が巻頭を飾っています。

「丹塗舟(にぬりふね)錨(いかり)帆の綱鱶(ふか)の鰭(ひれ)にほふ日向(ひなた)に濱ゆふの咲く
橘の蔭(かげ)に朝睡(あさい)す八咫(やた)がらす熊野の烏さはな呼びそね
水いろの衣(きぬ)きる母のふところにありし日見ゆれ瀞(どろ)に歌へば
那智山の那木(なぎ)の杖つき早歌を念仏(ねぶつ)に申す恋の順礼
青海のほとり紀人(きびと)はましら玉ふた丈(たけ)高き磯(いそ)に船おく 」

いずれの歌も、明治39年秋の熊野来訪の折の歌で、歌群50首が明治40年3月の「明星」に発表されています。「瀞に遊べば」が「瀞に歌へば」になっている異同などがあります。なお、2首目の「橘の蔭に」の歌には、「明星」では、「(新宮にて、清水氏の家に宿る)」の付記があります。これ等の歌は、与謝野寛の第7歌集「相聞(あいぎこえ)」(明治43年3月刊)に収録されています。

寛の巻頭歌に続いて、和貝の「蘇生の辞」が出ています。どちらも他の諸作品と比べて大きめの活字が眼を引きます。和貝は言いますー「砂に埋もれし浜ゆふの甦らんとして。声あり。/(略)/浜ゆふは甦れり。/あヽ天外の福音!/吾が師、与謝野寛先生の深きみ教へこそげに/浜ゆふの生命なれ。」
「はまゆふ」復刊の立役者は、和貝夕潮であること一目瞭然で、与謝野寛の熊野来遊が大きなきっかけになったことが分かります。最大の協力者は、七里御浜の潮騒から「潮鳴(ちょうめい)」と号した中学生佐藤春夫で、表紙絵に烏と猿とが対面する絵を描き、「鼻の人」と号して編集後記に当たる「熊野烏」欄を書いています。表紙絵ははなはだ不評であったようです。

成江醒庵(せいあん)が「予の観たる自然主義」と題して書いていますが、そこにはむしろ「自然主義」の「無理想無解決」ゆえに「危険なる思想」を起こしやすく、「血潮の燃ゆる青年子女、殊に人生の行路に迷へるもの⼂如きは断じて自然主義の作物に近かざるを可とす。」という結論は、当時の一般世相の主調の域を脱してはいません。例の春夫登壇演説の波紋が広がった際に、春夫に同情的な感想を述べた醒庵さえも、自然主義に対しての理解はこの程度であったのです。

「はまゆふ」

「禄亭」の大石誠之助の「無題雑録」では、「今の教師はパンの為めに働くから、其売る所の修身は商品と同じやうなものになり、医者はパンの為めに病人を迎へるから、終に薬売りになつて仕まふ。」と述べ、「浜ゆふ」復活については、「政治雑誌の発行を続けようと思ふならば何うしても世の政権と金権に諂(へつ)らひ、侵略を謳歌し投機を称揚し、驕奢(きょうしゃ・おごりぜいたくにすること)淫佚(いんいつ・楽して怠けること)を讃美せねばならぬ。然るに文学雑誌となれば有難い事には、積極的にそんな階級者の提灯を持たずとも、唯だ之を黙認して置くだけで立つてゆく。結局浜ゆふの再生は女の子が生れたやうなもので、あまり活発な仕事を望む事は出来ぬにしても、徴兵に取られる心配がないので、先づ安心と言ふ位の事だらう。」と、大石独特の皮肉交じりで辛辣な書きぶりです。政治と文学との関連で言えば、文学にはやや冷笑的です。後に、春夫が社会主義と芸術との関連で誠之助に食って掛かる、その萌芽がこの辺にあったのかも知れません。

「濱木綿社詠草」欄の「潮鳴」と号していた春夫の和歌は、例えば「み熊野に吾れ人となる斧ふるひ雲湧く中にわれ人となる」とか、「え動かず五尺のむくろいと細き五色の糸の一重からみて」「ひとつひとつ悔(くひ)のきざはしのぼり来て闇なる室(むろ)に吾はさまよふ」などです。「紅霞(こうか)」と号した下村悦夫の歌は、「赫耀(かくしゃく・ルビはママ・光輝く様子)と夏の光はどよめける市にもの乞うわが顔を射る」「病みぬれば獣の如し牛の乳もてる若人目をあげて待つ」など。「愁羊(しゅうよう)」と号した奥栄一は、「若き目のあまた来りておとろへし心の闇に星のごと照る」「ふとき⼂ぬ闇をへだて⼂ふと聞きぬ死の凶鳥(まがどり)の羽ばたきの音」などです。和貝夕潮には「蜑(あま)の子は浜ゆふ咲ける浦にゐて父待つ吾はみ船をぞ待つ(与謝野先生の再遊を待ちて)」と言う和歌もあります。

「佐藤潮鳴」での「馬車」と「食堂」と題する2編の詩もあります。「蛍がり」という短文は「蛙聖(あせい)」の作で、愛嬢の行子がせがむので蛍見物に出かける話です。「蛙聖」とは、「大逆事件」で大石誠之助とともに刑死した成石平四郎の号で、ふるさと請川の大塔川の蛙の泣き声に由来するもので、死刑が決定した時、戒名は不要だから「蛙聖成石平四郎之墓」とだけ小さな墓石に刻むように遺言しています。いま、請川の成石家の墓地には遺言通りの小さな墓石が切られています。

復刊「はまゆふ」は、その年の秋に2号を出して中絶したようですが、2号は現存していないので、その内容は詳らかではありません。中野緑葉が「「濱ゆふ」第二号は出た。第一号に比して、内容は、短歌に於て非常に豊富で、且つ歌も第一号に比べて優れてゐた」という記述において知ることが出来ます(「朱光土」3号)。ただ、3号の予告が出ているものの、出た気配がないのは、今から述べるような、春夫ら若い世代の、和貝からの離反が影響しているように思われます。

ところで、明治41年7月の「明星」に、春夫ら若い世代の和歌が掲載されたことはよく知られています。

「 にごりたる水なにごとか罵りて風にさからひ海に押しゆく  下村紅霞
我が燈火(ともし)七たび明りあなあはれ七たび消えぬ風もなけれど  佐藤春夫

斧うつをゆるさぬ天の老木に攀じなむとして大風に落つ  奥愁羊

七つの灯消えつ明りつ夏の夜の涼風かよふきざはしをゆく  中野緑葉

わが胸の木々の病葉(わくらば)おもひでの風ふくごとにかなしみて鳴る  坪井紫潮 」

ちなみにこの時の選者は、やがて朝日新聞の校正係をしながら同新聞の短歌欄の選者を務める石川啄木です。「明星」の新進歌人として頭角を現していました。投稿は和貝の意によるものらしく、春夫は「わたくしは時々に詠み捨てた幾首かを浄書して雑誌『趣味』の歌壇(選者はたしかに窪田空穂氏ではなかつたかしら)に投稿して、必ず幾首かは採つてもらえる常連になつた。これがわたくしのものの活字になつたはじめてである。もつとも田舎新聞や校友会誌は別として、また明星などにもわたくしの歌が出たこともあつたが、そのころわたくしは明星には投稿しなかつたから、当時のわれらの歌の指導者が選択の上で会の詠草として寄稿したのかも知れない。」と述べています(「詩文半世紀」)。

「明星」に投稿しないのは、むしろ意志的なもので、いわゆる明星調と言われたものへの反発もありました。下村悦夫や奥栄一らにも共通する認識でもあったようです。「明星調の克服」は、若者たちに短歌の世界からの浮上を促進させ、詩の世界や小説の世界へと大きく視野や関心を広げる作用をも果たしました。

一言で言えば「若者の反抗」として片づけられないこともないのですが、ちょうど中央でも与謝野寛離れが起こっていて、明治41年11月「明星」が百号で廃刊に追い込まれざるを得ない状況にも呼応しています。

 

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