館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(46)

思索の場としての徐福墓畔(二)
春夫に「恋し鳥の記」(大正14年7月「女性」)と題した文章があります。新開地となった徐福墓畔、徐福町と名づけられた辺の変わりように、はなはだ辛辣な目を向けています。

明治42年「軽便(けいべん)鉄道法」が公布され、小規模路線の「軽便線」が全国的に普及。新宮の木材業者らが発起人となって、翌年4月新宮鉄道KKが資本金70万円で設立され、翌々年の大正元年11月勝浦―三輪崎間が開通して運転を開始、大正2年3月には新宮まで開通。最初は木材運搬が目的だったようですが、次第に乗客も増え、大正6年には勝浦駅で乗降客が年間15万人余に達しています。新宮町の交通の要衝が、熊野川から汽車に変化して、新宮駅に近い徐福町も新開地となっていったのです。一方で、定期船の寄港が廃止された三輪崎町は、町の財政の40パーセントが減少する大打撃を受け、逆に、勝浦は大阪商船の桟橋が付けられ、人の交流が盛んになって、湯治客相手の旅館も建ち始め、観光地の様相を呈し始めてきます。
春夫は書いています。

「変つたと言へばただその界隈だけではない。現に私が今このペンを動かしてゐるこの家だつて、やつぱりこの町の新開地だ。それも、私の家などが最も罪が深い。―ここの新開地は、徐福町と名づけられたとほり、徐福の墓と言ひ伝へるあたりである。いや現にその古塚は私のこの窓から日夜見える。人は私の新らしい家の在所を尋ねるから、徐福の前と答へて、戯れに墓畔亭と呼んだ。ボードレールの文のなかにも「墓景見晴亭」といふのがあるから亭号になるかも知れない。(中略) /

 古蹟と呼ぶのも気まりが悪いほど風情がない。秦の始皇帝の為めに不老不死の仙薬を求めに来たと云ふお伽話めいた道士の墓にしては、今の徐福の墓はあまりにせちがらい。尸を埋めるには三尺の地で足りるし、況んやこの伝説的な墓は尸を埋めたかどうか怪しい次第だが、それにしても新開地のこせこせした家並のなかに纔か十坪にも足りない空地になつて残るのは、浪曼主義の敗北である。さうしてつひこの間―十年ほど前までは、現実主義ももつと遠慮してゐたのだ。あの一基の古塚の両側に今は枯れ朽ちてゐる老いた楠の樹は二本とも、まだ少しではあつたが青い葉をつけてゐたし、墓のぐるりの畔はもつと広かつた。(中略)

さうしてその塚のぐるりは一面の田であつた。そんな中にしよんぼり、枯れかかつた二本の大樹の楠のしたに一基の碑と、それをやや離れて取めぐつた七塚とは、青田にそよぐ風に蛙が鳴き初める頃の夕暮、或は又、褪めやすい秋の夕焼の下で収穫に余念のない百姓などをその間に点出した時などに、詩趣とは何であるを人の子に教へる価はあつた。私は時々、父にひつぱられてこのあたりへ散策に来た覚えもある。その田圃が今は一帯の人家である。さうして人々を非難しようにも、私自身の家がここにあるのだ。(中略)私はまだ青年で、故郷を出てから十五年にしかならない。それに時折によく帰つてみた。しかし少しゆつくりと住んだのは今始めてだし、それも昔ながらの蕙雨山房(引用者註・新宮市登坂の成育の家)に於てではなく、その墓畔亭が身に馴染ないせゐか、また新開地であるせゐか、ものごとに昔が好かつたやうに思へて生れ育つた故郷が妙によそよそしくていけない。」

当時の界隈を伝える次の文章も参考になります。

「まだ鉄道が通っていない明治三十年頃、徐福塚付近はもとより、駅前本通はまだできていないが、この辺りから南方は下熊野地まで一軒の民家もなかった。田と畠ばかり、そのなかを市田川がうねり、貯木場に注いでいた。その後、徐福塚前の道路に沿って成川の人が「栽美園」という盆栽店を開設、その東側に「熊野館」という旅館と、坊主山の南方に、太平洋や七里御浜が遠望できる料亭が誕生、新宮鉄道開業の酒宴は、ここで行われた。「熊野館」はあまり長続きはしなかったが、戦後まで池田通りに移築されて残っていた。」(永広柴雪「新宮あれこれ」初出新聞掲載より)

句の短冊

この新開地や下里懸泉堂に春夫は新妻を伴って帰省し、ほぼ1年ばかり滞在しました。大正13年11月から翌年10月までの時期です。その間に、春夫は神経衰弱に悩まされるほどの苦境に陥ります。春夫の自筆年譜によれば、大正13年3月「小田中(おだなか)タミ(当時二二歳)を妻とす。教坊の出なり。」とあります。「教坊(きょうぼう)」とは、ここでは花柳界のことです。秋田の生まれで、小樽から赤坂に移り、「徳勇(一説には太子)」と名のっていたと言います。1女美代子を連れて春夫に嫁いだのでした。

そんな日々の中、大正14年3月17日、新宮の文学仲間であり、「紀潮雀(きのちょうじゃく)」の号で、大衆作家として名を成しつつあった下村悦夫らが徐福町の家を訪ねて来ました。悦夫に請われて、春夫は大部の揮毫をしました。『殉情詩集』所収の「同心草」の内の13編で、みずから17頁にわたって揮毫して、金縁のアルバム帳を仕上げています。その跋文に言いますー「友人下村悦夫君は好事の人なりたり。一日われをしてわがうたを自書せしむ。悪詩と拙筆と情癡と蓋(けだ)し三絶なり。乃ち一笑して之を諾す」「於徐福墓畔 佐藤春夫」とあります(現在は所在不明になっている)。それは、新宮の徐福町で作製されたものです。春夫は、神経衰弱の憂いからひととき開放されたのでしょうか。

春夫は、「移転通知に 若草の妻とこもるや徐福町 春夫」の短冊も残しています。また、「汽車通る徐福墓畔の菫(すみれ)かな」の句を詠んだという、下村悦夫の証言もあります。

春夫は多くの印を用いていますが、なかに「家在徐福墓畔」というのがあり、春夫もお気に入りでした。「家は徐福墓畔に在り」とでも読ませるのでしょう。父豊太郎も多くの篆刻(てんこく)を残していますが、なかにこの印を彫ったものもあったと言います。豊太郎は請われて谷崎潤一郎の印も彫っています。

昭和4年刊行の『支那童話集』には「徐福」が載っています。昭和28年「徐福の船」という詩を発表(昭和28年3月「文芸日本」・昭和35年刊の『詩の本』所収)。昭和58年山崎裕視によって曲がつけられ、翌年「新宮はまゆう合唱団」によって発表されました。

辻本雄一

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