館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(42)

明治39年の与謝野寛らの来訪
第1次「はま(浜)ゆふ」は、現在7号(明治39年1月)以降しか残されていなくて、21号で終刊したようですが、17号からは、西村伊作の王子ケ浜風景の画が表紙を飾り、裏表紙にも伊作の別々の挿絵が飾られています。「自転車」と題されたカルカチュア(滑稽、戯画)風なものもあります。

さらに、俳句興隆でもうひとつ上げれば、把栗(はりつ)と号した新宮出身の福田静処(ふくだせいしょ)が、明治39年春帰省して地元俳人らによる歓迎句会が催されています。子規と同じ俳句仲間、子規は高濱虚子、河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)とともに、把栗を「錚々(そうそう)たる者」と高く評価したことがあります。静処はまた、漢詩での評価も高く、京都での禅僧生活も送っています。筑摩書房から刊行された『明治文学全集』全99巻の第62巻は『明治漢詩文集』ですが、そこに静処の漢詩と解説も収められています。

与謝野寛が、将来を嘱望されていた明星派の青年歌人吉井勇(よしいいさむ)、北原白秋(きたはらはくしゅう)、茅野蕭々(ちのしょうしょう)を伴って、伊勢から熊野への旅を行うのは明治39年11月で、翌40年の「明星」に各人の詩や歌となって発表されています。この時の日程などの記録は、「明星」明治39年12月号の「同人遊記」欄に詳しい。またここに、新宮で面会した人々の名が網羅(もうら)されています。時の新宮中学校校長や教頭、新宮高等女学校校長、医師、弁護士、新聞記者、実業家等多彩な35名です。大野郊外、清水友猿、鈴木夕雨、和貝夕潮、成江醒庵、徳美夜月、村田泥庵の名も見えます。さらに、佐藤梟睡(春夫の父豊太郎)、大石禄亭、西村伊作らも含まれます。「団体としては熊野談話会、吹雪会、うしほ会、有為会等、思想上及文学上の諸団体を合せたりき」であったと言います。

また同誌の翌40年1月号には、新宮・速玉神社境内での記念写真が載っています。このとき清水友猿や成江醒庵、鈴木夕雨はすでに「明星」の新詩社と結びつきを持っており、寛らの来熊もこれらの人たちの尽力が大きかった。新宮中学5年生であった和貝夕潮も、これを機に新詩社加入を決意し、和歌7首が新詩社詠草らんに載るのは、「明星」明治40年3月号、新社友として紹介もされました。同号には、東京の太田正雄(木下杢太郎・きのしたもくたろう)らも新社友として紹介されています。その後の新宮の短歌界を担う地位に就く和貝が、寛にすっかり心酔し明星調に傾斜していったことは、後進の者たちの進路にも大きな影響を与えずにはおかなかったと言えます。「明治四十年に入って、熊野歌壇は急激な変貌を遂げた。前年十一月の寛来熊により、うしほ会の人々がこぞって「新詩社」へ入社、「明星」一色に塗りつぶされたからである。」と清水氏は書いています。しかしながら、寛の「明星」はすでにそのピークを終え、妻晶子の名がますます高まる一方で、寛への評価は下降気味であったのです。それだけに、熊野の地で殊の外歓迎されたことは、寛にとっては望外のことで、2度目の来訪や熊野の地への思い入れにつながってゆきます。

中野緑葉も「茲に注目したいのは、ひとしく和歌を作り始めた私なりその他の人々のそのいづれが云ひ合せたやうにその出発が俳句に始まつて居る事である。当時熊野文壇に於ける俳句界はかなり隆盛を極め、およそ書に目を通すほどの青年は、たいてい、俳句かつくつたものである。」と「朱光土」1号で述べています。
寛の来熊は明らかに後述する「はまゆふ」の復刊の契機になったことは間違いがありません。

寛らの来遊の折、新宮中学の3年生だった佐藤春夫は、人力車で町から去ってゆく一行を、「中学校の校門の前で遥拝するような気持ちでいつまでも見送った」(「詩文半世紀」)だけだったと言い、まだ春夫は熊野新宮の文化圏に登場してはいません。そうして春夫には、中野のように「俳句」に接近していた気配はありません。自分は「短歌」から出発したという春夫の真意は、熊野新宮の文化圏への登場の背景をも語っていると言えます。また一面では、俳人でもあった父豊太郎への違和、あるいは自立の意味を内包していたのかもしれません。それだけに「短歌から出発」したということは、決して余暇としてではない短歌に対する真剣な態度が示されていたと言えるのです。「革命に近づける短歌」という短歌論を発表するのも、必然のことだったのです。

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