館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(36)

館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(36)

「反骨少年」の誕生―3年次での落第
春夫は「詩文半世紀」の中で、「落第に逆効果があって、わたくしは嘘から出たまことのように、本当に文学者になってやるぞという気になって来た。わたくしは本来アマノジャクの性格なのである。中学の二三年級上に新詩社の同人で歌をつくるのがゐて、わたくしも人真似に歌といふものをつくりはじめた。そのころの仲間に中野緑葉と号し郵便配達夫がゐた。また梅田酉水(ゆうすい)と号した北陸生まれで町に流れて来て酒屋の小店員になつてゐるのがゐた。銀行のボーイをしてゐたのが下村悦雄(ママ・雄は本名)といふ才走つた少年で、これが後年紀潮雀(きのてふじやく)のペンネームで大衆小説を書くやうになつたのである。」と述べています。

春夫の自筆年譜(大正15年6月新潮社刊「現代小説全集」第6巻)によれば、明治40年3月「同校第三学年に於て原級に留めらる。代数幾何を解すること浅く、且、文学書を耽読し、放縦にして不良性生徒として懲戒するの意あるものなり。奥栄一と相知り、日夕、共に文学を談ず。」とあります。

春夫が3年生に留め置かれた、留年、落第の通知を受け取った日は断定しがたいが、3月30日には入試の合格発表、すぐに入学式が行われる習慣になっていたので、20日前後には卒業式が行われたでしょうから、それ以前だったはずで、その折の様子が、「わんぱく時代」の「日和山の半日」の章に描かれています。小説として多少デフォルメされているようですが、落第が決まったその日の半日を知る上では貴重です。

 お昌ちゃんが三河に「売られてゆく」日、「僕」は何も打ち明けられず、自責の念に囚われ続けます。打ち明けられなかったこととは、落第したことです。お昌ちゃんのモデルとされる大前俊子は、お昌ちゃんとは境遇が違い、また、春夫が姉の家「お下屋敷」に出入りするのが、2度目の3年生の秋以降のことなので、春夫に慰めの言葉を掛けるような関係はまだ生じていませんでした。「わんぱく時代」で「僕」の心理を屈折させているのは、落第の一字を言い得なかったことが、お昌ちゃんと共に、「社会主義思想」に興味を持ち始めかけている「崎山栄」に知られることの困惑、弱みと感じる心理も共存させていることです。

 「成績発表の日」、1、2学期で芳しくなかった数学が、学年末では取り返せたと思っていました。しかし事務室で受け取った成績表には「落第」とあって、あとから思えば手渡す事務職員も「少し馬鹿にした」表情であったと思い返します。校門を出ても帰宅する気にはなれず、「不満とろうばい」とを抱いたまま、同級生らの顔色をうかがっていると、「僕がそのころ文学などを話し合うただ一人の友だち」岡貞一がしょんぼりした歩調で校門を出てきます。「彼は気の小さい正直な性格だから、はっきりと、それが全身に現われていたが、見えも何もないこのしょげかたはてっきり彼も落第の仲間らしかった。」とあります。

 「僕」が誘って、海や河口などが見晴らせる「日和山(ひよりやま)」に上って、「一軒の掛茶屋が、とうふ田楽を売るしるしの旗を春風になびかせている下に僕らはねころんだ。」
「僕」は急に思い出して、いったん帰宅、父は往診中で、母にだけ落第の事実を告げ、母の狼狽ぶりを尻目に日和山にとって返す。「僕は岡を誘って、一箱五銭の田楽を、用意の銀貨一つ分、十箱注文した。」田楽をほおばりながら、試験勉強も忘れて読み耽った島崎藤村の「破戒」について論じ尽くします。ちょうど1年前の明治39年3月に自費出版されたものでした。
この「掛茶屋」は河路為七(俳号を玉枝)が経営していたもので、日和山は別名河路山とも称されました。日和山はこの頃、はるか大海原を見渡せる場所として、観月の名所にもなっていました。まもなく井上弥惣吉が譲り受け「井上楼」となって、大王地から昼夜となく芸妓や舞妓が人力車で駆け付け伊佐田の坂に棍棒を下ろしたと言います。ちょうど木場への通路にもあたっていて、材木屋の店員の遊び場にもなっていました。

日和山より神倉山を望む

高知生まれで波乱万丈の人生を歩んできた依岡省三が、乳牛4、5頭を日和山に放牧し、熊野牧牛舎を起して牛乳販売を始めるのは、明治40年9月のことで、「僕」や「岡」が傷心を慰め合った頃は放牧直前の頃でした。(永広柴雪「新宮あれこれ」)

この日和山が第2次大戦後、高度経済成長の下開発の対象となって削り取られて平地となり、「新宮の地図」が一変されていきました。春夫の生誕から54年後生まれた中上健次が、「佐藤春夫について同郷の、しかも五百米も離れていない所で生まれ育った私が論を進める事は、多分に、自分の思い描く紀州が必然的に孕んでしまった物語を語らねばならないことになる。/ つまり、同じ血を持ち、同じように物語に過敏な紀州新宮出の後から来た者は、春夫を読んで、春夫が絶えずその最初の転向につまずいている事に気づく。」(「物語の系譜」・「佐藤春夫」)と書き、同和対策措置とも結びついた日和山開発の問題が自身の文学のバックグランドになってゆくのですが、そんな経過などは、「僕」も「岡」ももちろん知る由はありません。

「わんぱく時代」では、その後、「岡」の隣の寺の「赤木顕真和尚」が、「崎山栄」を頼もしい若者だとほめていたという話を「岡」がし、「僕」は友達がほめられて愉快な気分になります。

「わんぱく時代」の先行作品と言っていい「我が成長」(昭和10年10月刊)に収められた、「二少年の話」(昭和9年2月「中央公論」)の「加藤」が「沖」から「南がこのごろドクトルさんの薬局生になつてゐるさうだという噂を聞いた」「中学二年に進級したころ」とある部分に重なります。「加藤」は春夫で、「沖」は奥栄一、「南」はやがて「崎山榮」に造形されてゆく先駆けの姿です。そうして「南」の家近くから眺める光景―「その列の尽きるあたりの川上に見える茂みが権現様の森でその向ふが千穂ケ峯であらうが、いつも東からばかり見なれて平凡な形の山と思つてゐるのがここで見ると危つかしく後へ倒れかかつた妙な山に見える。ここは三重県の南のはづれで、その上に筏を浮せた青い水の熊野川を隔てて向ふ岸が和歌山県の新宮町」とある描写は、武蔵坊弁慶の生誕の地という伝説が残る鮒田(ふなだ)辺りからの的確な描写で、筏こそ廃れたものの、いまでもその印象は寸分も違いません。

急流の熊野川は、千穂ケ峰の岩盤に突き当って大きな蛇行を強いられるのですが、その岩盤の姿こそ千穂ケ峯の裏からの形象です。蛇行してからの辺りに、渡し場があった乙基(おとも)や速玉大社の祭礼の重要な舞台御船島(みふねじま)があります。

日和山でほぼ半日を過ごしたふたり―「僕らは屠所(としょ)の羊のような歩みで山をおりた。僕にもわが家の窓の灯が父の怒りの眼光のように見えたが、片親の岡にとっては女親の嘆きを想像して彼の足を重くしている。僕はまわり道をして彼の家の近くまで彼を送ってから、わが家に来てみると、そのころ僕の部屋の前庭に投げ出したマキ割とともに僕の愛車のピアス総ニッケルは車体がめちゃくちゃにゆがめ傷つけられてほうり出されていた。そのそばの庭の片隅には一山の黒い灰とそのなかに焼け残った本の表紙とが見られた。問わずして怒りを爆発させた父の荒れ狂った名残りと知れた。僕の机辺にはうず高く積み上げられていた文学書類は一冊も影をとどめていなかった。僕の愛車や愛書は僕の身代りにされたのである。」

春夫が落第した当日の模様は、このようなものであったでしょう。ここに登場する「岡貞一」は奥栄一がモデルであり、奥の住んでいた家の隣の寺は「遠松山浄泉寺」、「赤木和尚」のモデルは「大逆事件」で犠牲になった高木顕明が住職でした。高木は「遠松」と号して新派の俳句ななども作っています。「崎山栄」については、やはり「大逆事件」で犠牲になった崎久保誓一に近い命名ですが、春夫が崎久保と接した様子はありません。イメージ的には、同じように「大逆事件」で刑死した成石平四郎に近い感じはするものの、春夫が成石とも交わった事実はうかがえませんから、春夫が当時から、或いは後年も含めて見聞きし、自身のなかで築き上げた「大逆事件」の犠牲になった若者たちをデフォルメした像と考えた方がいいでしょう。「僕」にとっては、そこに後ろめたさとともに憧憬の姿をも感じ取っていたのでしょう。「僕」と作者春夫との距離を推し測ることが、作品「わんぱく時代」を考える要諦(ようてい)である、と言えます。

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