鬼が城の伝承

その昔、桓武天皇(737~806)の頃、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸(たがまる)を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂(751~811)が征伐したという伝説が残っています。その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼ばれていましたが、後に鬼ケ城といわれるようになりました。

この物語を調べると大筋では一緒だが、書かれている書物によって若干違うようです。
2012年の1月5日発行 熊野鬼伝説 坂上田村麻呂 英雄譚の誕生  桐村 英一郎氏著では、「南紀熊野木ノ本浦鬼城物語(江戸後期のものと思われる)」の中の話を現代語に直して書かれています。

鬼ケ城が断崖絶壁であり、海からしか近づけない事が説明され、ここの鬼神が住んで郷民を悩ませていや。平城(へいぜい)天皇の頃、大同年間(806~810)鈴鹿山の鬼神を退治した坂上田村麻呂将軍が、紀伊国の鬼の話を聞いて、討伐しようと二木島を計有して船で岩屋へ近づいた。

鬼の大将「金平鹿(こんへいか)」〈※海賊多娥丸(たがまる)では無いようです〉は、手下を集め、敵は観音の加護があるので我々の神通力が効かないかもしれないと食料を運び込んだ岩屋に閉じこもり、石の戸を閉めてじっとしていた。

坂上田村麻呂将軍が攻めあぐんでいるとき、沖の島の上に一人の童子がこつ然とあらわれ、弓矢を携えて将軍を手招きした。童子はまるで菩薩のようだった。かしこまる坂上田村麻呂将軍に童子は「私が舞を舞うから、軍勢も一緒に舞おう」と語り、船を並べた舞台の上で舞い遊んだ。その妙なる調べに、鬼の大将は何事かと石の戸を少し開けて顔を出した。

田村麻呂将軍はここぞとばかり、童子から授かった弓を引き、矢を放つと、矢は金平鹿の左眼に命中した。岩屋の中から800人もの手下の鬼たちが飛び出してきたが、田村麻呂将軍からの千の矢先にことごとく倒れた。千手観音の化身である童子は、光を放って飛び去った。童子があらわれた島を「魔見るか」島(魔見ヶ島(マミルガシマ・マブリカ))と呼ばれる訳はこの物語によってのようです。

熊野市のホームページの観光案内には、安時代桓武天皇の頃、将軍坂上田村麻呂はこの地に隠れ、海を荒らしまわって鬼と恐れられた海賊・多娥丸の征伐を命じられました。

近くの烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れ、鬼の隠れ家(現在の鬼ヶ城)を教えたが岩が厳しくそびえ、磯は波が激しくとても立ち寄れませんでした。その時、沖の魔見ケ島に童子が現れ、舞い唄い、軍勢も加わって大騒ぎをしました。鬼神が油断をして岩戸を開く一瞬に、将軍が神通の矢を放ち、見事一矢でしとめました。童子は光を放って北の峰に飛び去ったので後を追って行くと、紫雲たなびき、芳香に満ちた洞窟(清滝の上流)があり、守仏の千手観音を納め安置しました。
とあります。

この鬼ケ城にまつわる話は、泊観音や大馬神社へと繋がり、この地域に数々残る「鬼」にまつわる話の一つとなっています。

更に詳しくは、鬼ヶ城ホームページ

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