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	<title>丹鶴姫 | 熊野エクスプレス</title>
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		<title>その時、熊野は動いた②～丹鶴姫の怨念 2</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 02 Jan 2021 15:31:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[その時熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[丹鶴姫]]></category>
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					<description><![CDATA[丹鶴姫の怨念２ 私が住んでいる府中市には、大国魂神社の参道でもあるけやき並木があって、けやきの中には天然記念物に指定された樹齢数百年という大木も混じっている。 そのけやき並木のかたわらに、大国魂神社を守るかのように建って [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>丹鶴姫の怨念２</strong></span><br />
<span style="font-size: 12pt;">私が住んでいる府中市には、大国魂神社の参道でもあるけやき並木があって、けやきの中には天然記念物に指定された樹齢数百年という大木も混じっている。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そのけやき並木のかたわらに、大国魂神社を守るかのように建っているのが、前回ちらっと触れた八幡太郎義家の銅像だ。丹鶴姫(たんかくひめ）の四代前に当たる源氏の総帥が、大国魂神社にけやき並木を寄進して奥州征伐（1062年の前九年の役）の戦勝を祈ったということで、銅像になった義家はなかなか凛々しい顔をしている。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">大国魂神社はオオクニヌシノミコトを主神とする古い神社で、境内にさまざまな木が植えられていて目を楽しませてくれるのに、なぜか松の木は一本もない。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">伝承によれば、この地に帰ってきたオオクニヌシノミコトが、</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「わしは待つのがきらいじゃ」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">と、のたもうて、松の木を徹底的に嫌ったという。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">出雲大社に祀られている中央系の神オオクニヌシノミコトが、新たに部族神として府中の地に帰ってきたときに、ほんとにそんな駄洒落を言ったのかどうかは不問に処すとして、この地はもとはといえば物部系の根拠地だったらしい。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">熊野の神は物部系であり、松は熊野では午王護符の印材として使われている木で、熊野別当は家印としても松材を用いていた。松材は火力が強く、タタラ製鉄には欠かすことができない木だ。そういった関係から物部色が濃い土地には松の伝承が残っている場合が多いのだという。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>■大国魂神社の「からす団扇」■</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">大国魂神社では毎年7月20日にすもも祭が行われ、この日、一年に一度だけ黒い鴉が羽をひろげて翔んでいるようすを描いた「からす団扇」が参拝者に頒けられる。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">鴉といえば熊野だが、古い物部系の熊野の神を嫌ったオオクニヌシノミコトが「松はきらいじゃ」と境内から松の木を排除したところで、熊野との縁はなかなか切ることができず、いまだに「からす団扇」に名残があるということかもしれない。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">郷土史家（＊新中OB。太地出身）の澤村経夫さんの「熊野の謎と伝説」でも、</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「大国魂神社の主神は、大国主命である。出雲の国造の統治権を継承する火鑽（ヒキ）りの神事は、大国主命を祀っている出雲大社ではおこなわれず、不思議なことに島根県八束郡八雲町にある熊野神社でおこなわれた。出雲族の最高神は、大国主命ではなく、熊野大神であった。大国魂神社の鴉団扇と、熊野三山の鴉のいずれも熊野大神に源を発することに気づかれるだろう」と、熊野との関連について触れている。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>■新宮と「鶴」の深い関係■</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ところで丹鶴姫のことだが、速玉神社にあった修験の梅本庵に伝わる古文献「熊野年代記」では、丹鶴姫ではなく「田鶴姫」と呼んでいる。</span></p>
<p>前回にも引用させてもらった下村巳六さんの「熊野の伝承と謎」によれば、「崇徳大治五庚戌（1130年）鶴原尼丹鶴山に東仙寺建立」とあり丹鶴姫は田鶴姫のほかに「鶴原尼」と呼ばれていたことがわかる。</p>
<p>大治五年というと、白河法皇が崩じて鳥羽上皇が院政をしいた翌年で、為義の郎党が人を辱めて勅勘をこうむった年だ。白河法皇、鳥羽上皇が熊野に御幸したのは、その五年前の天治二年（1125年）になる。</p>
<p>鶴の古語は「多豆（たづ）」で「たづはら」（田鶴原）といえば、新宮市内に町名となって残っているし、幕末、新宮藩主・水野忠央の妹で、第十二代将軍家慶（いえよし）の側室となったお琴の方が産んだ男児の名は、忠央の命名なのか、その名も「田鶴若」といった。忠央自身も「鶴峰」という号をもっていたが、とにかく新宮と「鶴」との関係は深いのだ。<br />
「熊野の伝承と謎」には、丹鶴姫の墓所から出土した松鶴鏡の写真が載っているが、そこにはたしかにくびを伸ばした鶴が写っている。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong> ■源平のパワーゲーム。丹鶴姫の活躍■</strong></span></p>
<p>鶴で連想するのは、瀬戸内海のジャンヌ・ダルクといわれる大三島の鶴姫だ。</p>
<p>瀬戸内海の大三島にある大山祇神社の大祝家・兵庫助安用（やすもち）の娘だった鶴姫は、来島海峡を守る河野水軍に身をおき、天文十年（1541年）六月、大内水軍を相手に早舟を操り、みずから大薙刀をふりかざして奮戦した。ときに鶴姫、十六歳。そのさい着用したという紺糸威しの胴丸は、大三島の神社国宝館にあって国の重文に指定されている。胸のあたりがふくらみ、腰がきゅっとくびれた女鎧で、同じ水軍の娘でもわが丹鶴姫には鶴姫のような伝説が伝わっていないのが惜しい。</p>
<p>そのかわり、夫の湛快の死後、十九代別当行載（鳥居法眼）のもとに再嫁した丹鶴姫は、二十二代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。</p>
<p>丹鶴姫とともに新宮の地で育った実弟の十郎行家は、源三位頼政が平家打倒の兵をあげた際、以仁王（もちひとおう）の令旨を諸国に伝え平家を滅ぼすきっかけをつくった。</p>
<p>のち行家は頼朝と不仲になって討たれてしまうが、丹鶴姫は弟の留守中、田辺に本拠を構える子の湛増に源氏に味方するようにくどいたと思われる。</p>
<p>湛増は丹鶴姫が先夫の湛快との間にもうけた子で、口熊野と呼ばれた田辺に湛快が熊野三山の拠点として熊野三所権現を勧請し、まだ若かった湛増を権別当として置いた。<br />
（この項続く）</p>
<p>八咫烏</p>
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		<title>その時、熊野は動いた①～丹鶴姫の怨念 1</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 01 Jan 2021 15:09:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[その時熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[丹鶴姫]]></category>
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					<description><![CDATA[丹鶴姫の怨念 熊野川べりの城山（新宮）には、いまでも頑丈な石組みが残っていて、かつて白亜三層の天守と多聞櫓を持っていたという丹鶴城の偉容をしのばせる。 いまは城にあがる道がすっかり整備されて登りやすくなったが、私が小学生 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080;"><strong>丹鶴姫の怨念</strong></span><br />
熊野川べりの城山（新宮）には、いまでも頑丈な石組みが残っていて、かつて白亜三層の天守と多聞櫓を持っていたという丹鶴城の偉容をしのばせる。</p>
<p>いまは城にあがる道がすっかり整備されて登りやすくなったが、私が小学生の頃（千穂小学校）は道らしい道もなく、崩れかけた石垣の上の平地は雑草に覆われていた。<br />
沖見城ともいわれたこの丹鶴城には、日暮れになると美しいもののけ姫が出るという話が伝えられていて、私などは度胸試しのためにわざと夕方、陽が沈むころに登ったものだった。</p>
<p>作家佐藤春夫さんも「わんぱく時代」のなかで、丹鶴城のもののけ姫に触れているが、城の天守台跡あたりの祠から、緋のはかまに十二単衣を着こなした姫が出てきて檜扇で招くという話がまことしやかに伝えられていた。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong>■丹鶴姫と黒兎■　</strong></span><br />
あでやかな衣装をまとった丹鶴姫には、日が暮れてから外に出てくる黒い兎がついていて、その黒兎に道を横切られる子はほどなく死んで丹鶴姫のそばに行かねばならぬ、という言い伝えもあった。</p>
<p>黒兎は、もののけ姫の忠実な使わしめなのだ。</p>
<p>蘭沢（いのぞ）に棲む大蛇に魅入られた美少女オイノが森の奥に誘い込まれて底なしの蛇の穴に飲み込まれたという伝説は、子供のころよく聞かされたが、丹鶴姫の場合は子供がつい誘いに乗りそうな黒兎というところがいい。</p>
<p>私が古老から聞かされたのは、黒兎を従えた丹鶴姫の祠は本丸跡の東南側、薄暗い小路をへだてた小さな丘にあり、その丘の茂みのなかに古びた五輪塔が残っていたという話だった。</p>
<p>しかし、天守台跡や二ノ丸の窪地にところどころにえぐられたような穴があったが、あちこち歩き回っても私には祠や五輪塔は見つけることができなかった。</p>
<p>速玉神社の「神宝館」には、熊野詣でにやってきた中世の女人たちが寄進した金銀箔を張った檜扇があるが、十二単衣を着た丹鶴姫も、あんな檜扇で人をさし招いたのだろうか。それにしても、黒兎を使って祠に子供を呼び込むというのは尋常ではない。</p>
<p>茂みのなかでひっそりと朽ち果てつつある古い祠、それに使わしめの黒兎には、鳥羽上皇が熊野詣をしたころ、殿上人たちの間ではやった「穴黒々の黒主かな」という舞い囃し言葉を連想させるものがある。</p>
<p>これは、乱舞の席で囃されてもなかなか芸をしない者に対してしびれを切らした一座の者が、「けしからんぞ」と、囃した囃子歌だというが、公卿や女官たちと接触があった丹鶴姫も、あるいはこの囃子歌をうたっていたかもしれない。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong>■源義家と「立田の女房」との出会い■</strong></span><br />
八幡太郎義家といえば、武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあったが、その孫にあたる源氏の嫡流が源為義だ。</p>
<p>「吾妻鏡」によれば、この為義が院の熊野御幸に検非違使として随行したさい、第一五代熊野別当長快の娘で「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた娘と結ばれた。彼女は生地の新宮で一女一男を産んだ。女児が丹鶴姫で、為義の十男になる男児が十郎義盛、後の行家だ。</p>
<p>しかし、この「立田の女房」は、熊野別当長快の娘ではなく、熊野三山の巫女だったのではないか、という説をたてているのが郷土史家の下村巳六さんで、その著書「熊野の伝承と謎」のなかで、「私は疑わしいと思う。源為義の子、丹鶴姫や行家などを産んだために、別当の養女となったのかもしれない。その素性は巫女だったのではなかろうか、とも思う。平清盛と厳島神社の巫女と関係が深く、それがあの有名な平家納経の素因となったといわれているが、そうしたことは当時ありえたことだったからである」と書いている。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong>■「立田」は「たたら」？</strong></span><br />
「立田」は「たたら」と音が似通うし、「丹」は古代、朱の原料となる丹ではなく「丹青」として砂鉄を指したのだそうだが、丹鶴姫の丹はその血筋が採鉄にかかわるもの、すなわち「たたら筋」ではないか、というのが下村さんの推論だ。</p>
<p>そういえば神武天皇の皇后である媛踏鞴五十鈴姫命（ヒメタタライスズヒメノミコト）も「たたら筋」という説がある。「古事記」では比売多多良伊須気余里比売（ヒメタタライスケヨリヒメ）となっているが、どっちにしてもタタラヒメなのに変わりはない。</p>
<p>「立田の女房」が為義の夜の伽の相手となって懐妊し、別当の養女となったかどうかは別として、成人したその娘丹鶴姫は第一八代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。それが後に第二一代別当となる湛増だ。</p>
<p>天皇、あるいは上皇という旗印のもとに源平いずれかの武家勢力を味方につけて権力の座につこうとする公卿たちの画策、そのおどろおどろしいパワーゲームに踊らされたのが、湛快・湛増父子であり、丹鶴姫だった。<br />
（この項つづく）</p>
<p>&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8211;</p>
<p>この記事は、新宮出身の作家新宮正春さんの「歴史のなかの熊野」というエッセイの中から一部を紹介しているものです。掲載については、もともと森本剛史君がかつて発行していたメールマガジン「熊野エクスプレス」に掲載しようということで新宮正春さんご本人から了解を得たものです。当時の、新宮正春さんのコメントが残っています。</p>
<p>「小生、ただいま書き下ろし中の小説の締め切りがとっくに過ぎているのに、ついつい新宮の歴史雑学について書くことに夢中になっててしまい、ワープロ打ちはもっぱらそればかりという状況です。編集者からの電話におびえる逃亡生活スリルを楽しみつつ、原稿料にならない原稿を書くという事が実に愉快です。</p>
<p>中世の丹鶴姫あたりからはじめて、堀内氏善の時代、その後の幕藩体制の時代と、新宮とその周辺のあれこれをかき集めて時系列で整理し直してみると、ゆうに単行本一冊の分量になってしまいました。むろん、これには徐福のことはいっさい抜きです。</p>
<p>ご要望あらば、どのパートでも喜んで熊野エクスプレス誌上に提供いたします。」</p>
<p>八咫烏</p>
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