我がらの新宮弁講座㉕~熊野古道ひとり旅 2

私たちが、小さい頃から何の疑問も持たずに使ってきた「新宮弁」。成長して都会に出ていった皆さんは、その土地で使われている言葉と故郷・新宮の言葉との違いについてどのように思われたでしょうか?そして、その後、故郷の旧友に会ったり、帰省したときなどにふとついて出る新宮弁。あなたは新宮弁をどう思いますか?

万人が認める新宮弁の達人にして新宮弁研究の第一人者・城かず坊先生が、新宮弁の深淵に迫ります。それでは、よろしくお願いいたします。(編集長・八咫烏)
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♪ おんなは愛に欲ばりだから
重荷になっていたみたい
ないものねだりの 悪いくせ
熊野古道は 石畳
消したつもりの 面影が
杉の木立に 見え隠れ♪ (作詞/木下龍太郎・作曲/弦 哲也・歌/水森かおり)

水森かおりの「熊野古道」は、オリコンヒットチャート演歌部門を、快調にトバしています。年間ベスト1も夢ではないかもしれません。人気は全国区! 紅白出場間違いなし!
女ひとりの熊野詣。今日は本宮から新宮まで川舟下りと参りましょう。

川丈筋(熊野川沿いのこと)の民は、新宮へ行くことを「新宮へ下る」と言います。
新宮の親戚に、「明日ヨ、新宮ぃ、下って行くワ!(略して、下ってくワ)」などと、電話をします。
上流域へ帰る時は、「ど、上ってこか!」ですね。
老婆の日記や手紙、古文書(?)には「朝一番のバスで下新(げしんと発音)・・・」などの記述が見えています。

新宮の皆さんは、この話を知った~たですか?
何も新宮だけが対象なのではなくて、川上の村へは「上る」であり、川下へは「下る」です。川の流れが中心なんですね。むつかしい話ではありません。自然に対して自然に反応しているだけです。

船頭 「オラ、オラ! ぼやぼやしやったら川ぃ、ハマるデ! ここは一番、ドン深いんやド!」
船乗りや運ちゃんには、はばい人が多いです。雅な熊野詣もなにもあったもんではありません。

客  「船頭さんは、熊野川とのつき合いは永いんですか?」
船頭 「生まれた時からやノ。最後の筏乗り言われて、そのあとはトラックで新宮まで材木、運んだわヨ。せやけど、材木も不況になってしもてノ。お客さんら乗せてまた(舟に)乗れるら、思わなんだ・・」
客  「熊野川は変わりましたか?」
船頭 「変わったのどうのて、変わりまくったねゃ。ダムゃ出来てからいうもんは、もうさっぱりじょ! 思い出すたび、アタマに来ての~・・!」
客  「そうですか? きれいな川ですけどね」
船頭 「都会(まち)の人は、そう言うてくれるけどの・・。あかん、あかん。違う、違う・・・。さっぱりじょヨ!」

船頭は、筏を流していたころのことを思い出していた。
川岸の岩の上からは、子どもたちが川に飛び込んでいる。
淵のところでは若い衆がヘシ(やす)を持って、すこんぼり(水に潜ること)を繰り返している。スズキやノボリを狙っているようだ。

瀬のところでは、箱メガネやワッパ(水中メガネ)をつけて、「ちょんがけ」(針で鮎を引っ掛ける漁法)をやっている人がいる。おとり箱には尺鮎がワンサカだ。

もどり(筌)を浸ければウナギは一杯獲れた。ふちあみ(火振り漁)をやれば、大きなカゴに鮎は何杯も獲れた。ナマズも掛かったりした。ススキ(スズキ)追い漁もやった。

往時はこんな光景は当たり前でしたが、ダムが出来てからというもの魚影は薄くなり、川も濁りました。でも、都人(みやこびと)にとっては、それでもきれいな川。女はそっとつぶやきます。
女 「それにしても山が深くて緑が濃いのね。癒やされるワ・・・。今ごろ、あの人は何をして・・・」
九里峡を「ひらた舟」は、ゆっくりと流れ下ります。

敷屋、宮井、日足を経て田長まで来ると、そこは平成のミニ川舟下りの出発点。
宣旨返り、葵の滝(白見の滝)、なびき石、骨嶋、釣鐘岩、昼嶋、弁慶の足跡、飛雪の滝、○○○岩、畳石などを眺めながら、桧杖まで下ってきました。千穂が峰の裏山が見えます。

熊野川は今やどこまで行っても道路がついていますが、千穂が峰の裏山には道はなく、太古の姿を留めています。
カヌーやボートで川下りをしてみればわかりますが、道路のない箇所は趣があり、エエもんです。
河口近くにそんな所が残っているのは、奇跡的。嬉しいことです。大切にしたいですね。
御船島を過ぎれば、おっと、太平洋が見えてきました。新宮(しんぐ)ぃ、着いたデ!
舟を降りて川原町を通れば、そこは速玉大社。
「今宵はどこで、休もうかしら・・・」。女のひとり旅は続きます。

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