シンゴ歴史めぐり9 家康のつぶやき 女城主の巻 午前の部

はい、みなさん、おはようございます。ひさしぶりでございます。家康でございます。

えっ、顔色が良いですねってですか。そうなんです。

今年は私の没後400年とかで、アチコチによばれ、アシコシが強くなりました。

あちこちって、どこでですかって、そりゃあ、それはもう決まっておりまして、岡崎、静岡それに浜松でございますよ。盛り上がっておりますよ、京都の知恩院でも、東京はまだちょっとでございます。そんなこともありまして、先日もザビエルさんと「家康とキリシタン」というテーマで座談会をしたばかりであります。その座談会の内容は近々、本になって出版されるとか聞いておりますので、ここでは詳しくは申し上げる訳にはいかないのでございます。はい。

しかし、ザビエルさん、いい人ですね。とても日本が好きなようで、「ニホン、ジョウトウ、ニホン、スバラシイ」を連発しておられましたよ。きっと、よほどひどい国に布教に行っておられたのでしょうね。

そうそう、来週は、明智さん、石田さん、東条さんのジョイント・トーク「敗軍の将、大いに語る」のコメンテイターとして参加することにもなっているのでございます。その席には慶喜にも出るようにと、声がかかったらしいのですが、欠席の通知が返って来たらしいです。

きっと、趣味のカメラやバイスクール乗りに忙しいのでしょうね。

 

さて、最近の日本は、なにか江戸時代に学ぼうという空気が見られるようでございます。

「日本史の謎は地形でわかる」とかいう本で、私が江戸に来てから行った河川などの土木改良を高く評価してもらったり、今やいろんな分野で活躍してくれている私の子孫たちが、江戸時代の社会やインフラ、文化を評価する本をたくさん書いてくれているようであります。

私も戦国武将の一人でございまして、かつて、経営者の皆様には人気があったのでありますが、変革を好む若い人には、人気がいまひとつでございました。

それに、この風体でございましょう、若い方にはちょっと、魅力に欠けておるようでございます。また、私の胴回りでは、はけるサイズのズボンがないので、洋服の青山墓地で買っております。はい。

でありまして、昨今の徳川ブームというか江戸ブームをちょっと喜んでいる次第であります。

きっと、今年くらいから運が向くのではないでしょうか。いちど、細木さんに見てもらおうと思っています。あれっ、細木さんは、まだこちらにいらしていないのですね。最近テレビで見ていないですね。それに、最近は、こちらにも男女同権を唱える方々がだんだんと増えてこられました。

そして、戦国時代でも女性の役割は高かったはずだ、女性も男性と一緒に苦しんでいる、戦士もいたはずだ、いや女の城主もいたはずだ、と主張をされる声を聞くようになりました。

私は見た通りのフェミニストでございます。秀吉殿の○○○好きとは全く違うのでございます。

正妻こそ長男と一緒に死なせてしまいましたが、実は愛妻家でございまして、その後、正妻を迎えていません。すべて側室でございます。これは自慢してもいいとことではないでしょうか、

えっ、それは私の勝手な言い分であるってですか。誰ですか、そんなことはおっしゃられるのは。

あれっ、その声は、おたかさんじゃないですか。最近こちらに来られたのですね。

そうですね。現代は男女平等。男のエゴは駄目。駄目なものは駄目でございますよね。

 

え~と、それでは、今日は、女城主についてお話をさせていただきます。

女城主といえば、まず、私の四天王の一人の赤備えで有名な伊井直政(1561年~1602年)の育ての母である直虎様(?~1582年)が有名でございます。

直虎様は直政の父と婚約はしましたが、直政が幼い頃に、父が戦死してしまいましたので、未婚のまま女城主となり、敵と戦い、また義母として直政を立派な武将に育て上げた女性でございます。

この直虎様につきましては、私はどこかで伊井家の歴史についてお話をさせて頂いたときに、すでに触れておりますので、今回は省略させていただきます。

なお、井伊家では幕末の直弼も良くやってくれたと、私は高い業務評価をしております。

鎖国をした江戸幕府の初代代表である私が、このようなことを申し上げてはいけませんが、幕末の状況は、現在のTPPと同じでございますので、安倍さんにも、どんなに攘夷、もといっ、反対の風がきつくても、安政、もといっ、平成の大獄といわれようと、頑張って頂きたいと思います。はい。そうそう、本題でございましたね。私の国を憂える思いはあの世でも、この世でも同じでございます。

あれっ、今、私はこの世に居るわけですから、あの世がこの世で。この世はあの世でしょうか。

 

え~、今日お話する最初の女城主は、信長様(1534年~1582年)の叔母のおつやの方(?~1575年)でございます。みなさん、岐阜県の美濃というか、東濃の岩村城をご存知でしょうか。

ご存知ないですか、長野県に近い恵那市岩村町というところにあったお城でございます。

岩村城は自然のけわしい地形を利用した要害堅固な山城でございました。

江戸諸藩の城の中では最も標高が高い721mに建てられておりましたことから、奈良県の高取城・(583m)岡山県の松山城(480m)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられておりました。

しかし、城は明治維新まで存在しておりましたが、1873年の明治政府の廃城令により全て取り壊され、今は城壁のみが残っているだけでございます。

徳川を倒した明治政府は、本当に勿体ないことをしたのでございますね。東濃は鎌倉時代から遠山一族の三人衆が岩村城、明知城、苗木城を守っておりました。

尾張の信長様にとって東濃は甲斐への入り口、甲斐の信玄様(1521年~1573年)にとっては京都へ向かう道でございましたので、ご両者とも東濃を重視しておられたのでございます。

そのため、信長様は岩村城主遠山景任(かげとう)(1537年~1573年)に叔母のおつやの方、今風でいいますと、おつやさんですか、を嫁がせ、さらには、苗木城主に妹様を嫁がせるなど、遠山一族との姻戚関係を強めていたのでございます。

そして、信長様は苗木城主に嫁がせた妹御からお生まれになった姪御さんを、信長様の養女とされ、信玄様の子の武田勝頼(1546年~1582年)に嫁がせております。

この方が遠山夫人(1553年~1567年)といわれる方でございます。

遠山夫人は信勝(1567年~1582年)を生みますが、難産のため亡くなってしまわれました。

また、信玄様の五女と、信長様のご長男の信忠様(1556年~1582年)との婚約が成立仕掛けましたが、ご両者が敵対関係となったため、婚姻は成立せずとなりました。

さて、岩村城主遠山景任に嫁いだおつやさんは、1571年に夫・景任が病死したため、信長様の五男の坊丸様(1567年~1582年)を養子に迎えいれました。

しかし、坊丸様が未だ幼少だったため、おつやさんが後見となり、事実上女城主として采配を振るわれたのでございます。

しかし、翌1572年に、武田軍が東濃に入り、岩村城を攻めたのでございます。

篭城するおつやさんに対し、武田軍は和議を申し入れるとともに、武田の将である秋山信友(1527年~1575年)との婚姻を求めたのでございます。

おつやさんはこれに応じ開城し、今度は秋山信友の妻として岩村城主の妻の座に着いたのであります。この時、信長様の五男である坊丸様は人質として甲斐に送られております。

そして、三年後の1575年に、長篠の戦いで武田勢に圧勝した信長様は岩村城奪回を謀りました。

ご長男の信忠様(1557年~1582年)を大将として岩村城を攻めたてましたが、これがなかなか落ちないのであります。

力攻めでは城が落ちないと判断した信忠様は持久戦に持ち込んだのでございます。

しかし、それでも落ちない城に、業をにやした信長様は、直接出陣され、陣頭指揮をとられ、謀り事で城を落とすこととしたのでございます。謀り事とは和議でございました。
信長様が「叔母の城を、城兵にて兵火にさらすのは忍びない。」と開城を持ちかけますと、秋山信友・おつやさん夫婦は、その信長様の求めに応じたのでございます。
しかし、信長様は甥である自分を裏切り、さらに我が子までも武田家に人質として差し出してしまった叔母のおつやさんを、 赦そうとは思っていないのでありました。
信長様は和議を結ぶと、城を開け渡した秋山信友以下の城将を皆殺しにし、おつやさんも捕らえ、逆磔刑にしたのでございます。一番残忍な刑でございますよね。

おつやさんは「敵方であった秋山は、かつて開城を求めたときに約束を守ったのに、身内である信長は和議の約束を反故にするのか。」とうらみ、「かかる非道のふるまい、わらわがその罪を赦すとも天が赦すまじ!追っつけ因果はめぐりて、苦しき死に遭うべきよ~!」と、怨嗟(えんさ)の声をあげながら泣き果てたと聞いております。

それで、信長様はあのように火で焼かれるという最後になったわけではないとは存じますが。

 

おつやさんも信長様の一族の方でございました。お市の方(?~1583年)、淀君姉妹など信長様の縁者の女性は美女として後世に伝わっております。

おつやさんもさぞや美しい方だったのでありましょうが、信長様の気性の激しい血も混じっていたのでございましょうね。

私の息子、秀忠(1579年~1632年)の嫁のお江(1573年~1626年)は淀君様(?~1615年)の妹さんではありますが、かなり信長様の気性の方が多く入っているおなごではありました。

 

岩村城はそのご河尻氏が城主となり、そのあとは、森蘭丸(らんまる)(1566年~1582年)、長可(ながよし)(1558年~1584年)、忠政(ただまさ)(1570年~1634年)と森氏が続きました。

また、人質として甲斐に送られていた坊丸は、武田信玄の養子となり、元服して武田勝長(かつなが)と称しました。1581年に武田勝頼によって信長様のもとへ送り返され、織田源三郎信房(のぶふさ)と称し、尾張犬山城主となりましたが、本能寺の変にて信長様、兄の信忠様、森蘭丸様らと共に討死しておられます。

 

さらに、女丈夫といえば、美濃にもうひとり知っているおなごがいたのを聞いたことがございます。

これも、信長様が美濃を攻略したときのお話でございます。

岸信周(のぶちか)、信房(のぶふさ)親子が治める堂洞城という城が、現在の岐阜県加茂郡富加町にございました。この堂洞城の岸親子は斎藤家につき、近くの加治田城、関城とともに信長様に対抗するために同盟を結んでおりました。それで、信長様はこれらの城主に、織田方につくように使者を遣わしました。加治田城主は織田方についたのですが、堂洞城では父の信周が使者を前に子の信房に、どうするかと尋ねると、信房はしばらく席を外すと、別室にいた幼い弟二人に覚悟の程を伝え、二人の首をはね、その血まみれの首をぶら下げて使者の前に現れ、自分たちの覚悟を示したのでございます。

また、信周は同盟を結んでいた加治田城から、人質として養女を迎えておりました。

戦国の世でも、妻の実家と、夫が敵同士となる場合は妻を実家に帰すのが普通でしたが、いわんや養女をやです。しかし、岸親子はその養女を逆磔にして殺したのでございます。

そして、織田軍に城を攻められ、子の信房が戦死し、信周が本丸でこれで最後かと、うつむき、涙を流していると、彼の妻がなぎなたを持って現れたのでございます。

妻        面目なしとなどと、お嘆きになりまするな、武辺の常でございます。私が介錯いたします。

そういって、自刃する夫の首を打ち、自らも自害して果てたのでございます。

その妻の辞世の句は「先だつも しばし残るも 同じ道 この世のすきを あけぼのの空」でございます。信周も「待て暫し 敵の波風きり払い 倶にいたらん 極楽の岸」と読んだとも言われます。

その妻の名前ですか、すみません。信周の妻としか記録に載っていないのですよ。

静岡県や岐阜県という東海地方の女城主、女丈夫のお話をさせていただきましたが、ここより、はるか遠い九州の地にも女城主というか、気丈な女性が居たのでございます。

その方は葉隠で有名な佐賀の慶誾(けいぎん)様でございます。

さすがに、こちらにいらっしゃる皆さんは葉隠をご存知でしたね、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という武士の心得を書いた本で、佐賀ではベストセラーでございました。

そして、佐賀といえば鍋島藩、さらに、「化け猫騒動」でございます、ご存知ですか。

えっ、歌舞伎で見たことがあるってですか。

この歌舞伎狂言の筋書は鍋島をもじった直島大領直繁が盲目の高山検校と囲碁で勝負を争い、検校を殺害したので,検校の飼猫が後室の嵯峨の方に化けて夜ごとに直繁を苦しめたため,忠臣伊東壮太が嵯峨の方の正体を見破り撃退する、というものでございました。

この佐賀の化け猫の話しは、前々から芝居化されていたのですが、1853年に歌舞伎狂言で中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』(はなのさがのねこまたぞうし)として上演され大ヒット作品となったのでございます。しかし、当の鍋島藩から苦情が出たために、間もなく上演中止となったのでございます。

そのため、却って化け猫騒動の宣伝され、話が有名になるという結果となったようでございます。慶誾様につきましては、この化け猫騒動をご理解していただくと、理解が早いとおもいます。

それで、この怪談の元となった話をご存知でない人のために、ちょっとご説明させていただきます。

えっ、なんですかっ、午前の部の終了時間を過ぎましたって。

みなさん、申し訳ありません。私の話が細かくなる癖がありまして、予定の時間をオーバーしてしまったようでございます。

ご昼食、ご休憩のあとに、この佐賀、いや鍋島藩の成立の立役者でもある女城主というか、女丈夫慶誾様についてお話させていただきます。

 

つづく

丹羽慎吾

 

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