シンゴ歴史めぐり5 家康のつぶやき 清洲城の巻

今回は信長様のお城の清州城についてでございます。
清州に関するキーワードと言えば、清州同盟、清州会議、清州越しなどでございます。
清州城がどこにあるかと申しますと、皆様が新幹線で東京から大阪に行かれますときに、新名古屋駅を過ぎますと、すぐ右手にご覧いただけます。
五条川をはさんで東側に清州城、西側に清州公園がございます。
しかし本来の清州城は川の西側にございました。現在、その跡地にできました清州公園はJR東海道本線や新幹線に分断されてしまっているのでございます。
もし信長様がご存命であれば、なんとお叱りなされたかと思うと冷や冷やモノでございます。
清洲城のあります町は昔、清洲町と書かれておりましたが2005年7月の平成の大合併で西枇杷島町、新川町と一緒になり清須市となりました。
ですので、清洲市と書くと誤記となるのでございます。
しかし、JRの清洲駅は限りなく清須市に近い稲沢市にあり、名鉄の駅は清須市にございますが、新清州駅と旧名を使用しているのでございます。
市民の皆様は清州という地名に愛着を持っておられるのでございましょうね。
現在、清州城跡に建っておりますお城は旧清洲町の町制100周年を記念して、実在しました当時の外観や規模を想像しながら1989年に建設された模擬天守なのでございます。

さて、信長様の織田家は、もともとは越前国織田庄、現在でいいますと福井県丹生郡越前町織田の織田剣(つるぎ)神社の神主の出であったと伺っております。
そして、織田家はそちらで次第に大きな勢力を持ち、甲斐氏、朝倉氏と同じく、室町幕府で足利将軍の次の位でありました三管領(かんれい)のうちの斯波家の守護代となったと伺っております。
その織田家の一部の方が尾張国に移り、尾張守護代となり、さらに、戦国の混乱期において弱体化しました守護の斯波氏に代わり、徐々に頭角を現して、戦国大名として名乗りを上げていったとも伺っております。
尾張は尾張上四郡(かみよんぐん)の岩倉織田氏と、下四郡(しもよんぐん)の清洲織田氏に分裂して抗争を続け、清州織田氏の三家老のひとつであった弾正忠家が主家を上回る力をつけ、その弾正忠家は信長様の父上の信秀様(1510年~1551年)の時代に尾張統一を進めるとともに、美濃国の斎藤氏や三河国の、ゴホン、松平氏、駿河守護の今川氏と抗争し、武威を示して行かれたと伺っております。

信長様は、お父上が亡くなられた後に起こりました織田家の内紛を鎮める一方で、尾張守護の斯波氏をも追放され、尾張の統一を成し遂げられたのでございます。
信長様は、それまで住んでおられた那古野城から1555年に清州城に移られ、大改修を加え、居城とされたようでございます。
1560年に今川氏を破りましたあの桶狭間へは、その清州城から出陣されたのでございます。
また、1562年に、私が信長様と同盟(清洲同盟)を結ぶために参りましたのも清洲城でございました。
なお、当時でとしては珍しいことでございますが、私はこの同盟を二十年もかたくなに守り続けましたので、信長様の私への評価ばかりか、他の大名方から私への信頼も高まったのでございます。
信長様は、この清州城に8年ほど住まわれたあと、美濃国の斎藤氏との戦に備えて小牧山に城を築かれ、町そのものをも移されました。この後に続く信長様流のすばやい事業展開でございます。

しかし、信長様は1582年6月に本能寺の変で家臣の光秀様(1528年~1582年)のご謀反によりお亡くなりになりました。
ご嫡男の織田信忠様(1557年~1582年)も、その時に二条城で自害されておられます。
そして、一ヶ月経たずして有名な清洲会議が清洲城で開かれたのでございます。
と言いますのは、信長様の最後の居城でありました安土城は、天守と周辺の建物が本能寺の変の時に燃えてなくなり、二の丸しか残っていなかったのでございます。
清州会議での議題は信長様亡きあとの継嗣問題と領地の再分配でございました。
出席者は織田家第一の重臣であられた柴田勝家様(1522年~1583年)、それに次ぐ重臣の丹羽長秀様(1535年~1585年)、信長様とは乳兄弟の池田恒興様(1536年~1584年)、そして、信長様の敵を討たれた羽柴秀吉様(1537年~1598年)の4人様で、勝家様と仲の良かった滝川一益(かずます)様(1525年~1586年)は関東地方へ出陣中とのことで欠席されました。
しかし、その一益様の欠席は、直前に北条氏との敗戦を口実に、一益様を参加させなかったという秀吉様陰謀説もございます。
私は、信長様の同盟者ではありましたが、織田家の一員ではございませんしたので、会議への参加はしていないのでございます。
前田さんは柴田様のお供で清州に行っておりました。

一番の争点でございました後継者の問題では、信長様の三男で会議には欠席されました織田信孝様(1558年~1583年)を推す柴田勝家様と、信長様のご摘孫で、わずか3歳の三法師(織田秀信)様(1580年~1605年)を擁立する秀吉様との対立でございました。
秀吉様は光秀討伐の一番の功労者でいらっしゃったので、丹羽長秀様らの支持がございました。
なお、次男の信(のぶ)雄(かつ)様(1558年~1630年)は伊勢の北畠家を継いでおられ、また、人格的にも誰にも推薦者がおらず、後継者候補からは外れておりました。
清洲会議の結果は、三男の信孝様は神戸(かんべ)氏に養子に出されていたこともあり、ご摘孫の三法師様が血統的に正統性があるとして信長様の後継者に決まったのでございます。
領地の再分配では、次男の信雄様は尾張国と伊勢国を、三男・信孝様は美濃国を相続し、四男で秀吉様の養子である羽柴秀勝様(1568年~1586年)は光秀様の旧領であった丹波国を相続されました。
ご家来衆では、柴田勝家様が越前国を安堵され、勝家様のご希望で秀吉様の領地でありました長浜城と北近江3郡を得られました。
丹羽長秀様は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡を、池田恒興様は摂津国から3郡を、それぞれ加増されたのでございます。
織田家の新当主となられた三法師様は近江国坂田郡と安土城を相続され、秀吉様には山城国が与えられました。
清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭でございました柴田勝家様の影響力が低下し、代わりに秀吉様が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられたのでございました。
この時の秀吉様と勝家様の対立が、翌年の賤ヶ岳の戦いでの柴田様の滅亡、そして、織田家の崩壊、秀吉様の天下取りへとつながって行ったのでございます。
なお、秀吉様が三法師様を当主になされた裏には、秀吉様の腹心の黒田孝(よし)高(たか)(官兵衛)様(1546年~1604年)が、他の宿老たちに十分なる根回しを行っていたことも勝因でもございます。
清州城は城主となられた次男の信雄様によって二重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われました。
秀吉様が1590年の小田原征伐後に信雄様に国替え命令を出された時に、信雄様がわがままを言ったために、除封され、清洲城はのちに関白となられる秀吉様の甥の豊臣秀次様(1568年~1595年)の所領に組み込まれました。
信雄様は秀吉様の時代が到来したにもかかわらず、秀吉様を織田家の家来としてしか見ておられないようでございました。そのため、賤ヶ谷の戦いの後に、信雄様は私と連合して秀吉様と一戦を交えることになりました。
その小牧長久手の戦いにつきましては別の機会にお話させていただきます。
そして、私は徳川の世になりましても、信雄様には面倒を見てあげましたので、晩年は京都に隠居し、茶や鷹狩りなど気ままな暮らしをされ、73歳で亡くなれました。憎めない次男坊でございました。

さて、関が原の戦いが終わり、私の時代のことをお話します。
私は、1610年頃から、それまで尾張の中心を清洲から、今の名古屋城のあるところに移したのでございます。これを世間では『清洲越し』と呼んでおります。
移転の理由としては、大阪城に残る秀頼様を守る豊臣勢力へ監視が第一でございました。
それで、名古屋城を私の9男の義直(1601年~1650年)に任せたのでございます。
また、清洲は五条川という川があり、湿地帯でもございましたので、水害に弱いことなども考慮したのが清州越しの理由でもございました。
清州越しでは、家臣、町人のみならず、神社・仏閣も社寺3社110寺、清洲城下の町屋約2700戸ばかりか、清州城小天守も名古屋に移しました。
それが今の名古屋城の清州櫓でございます。
また、現在の名古屋市に残る長者町などの地名もその名残で、清洲越しを経験した旧家であることが、名古屋では伝統と格式を示すものとされるのでございます。
しかし、城がなくなりましても、清州は美濃街道の宿場町『清洲(須)宿』として栄え、当時の陣屋の名残がまだ残っております。
最後になりますが、信長様は、お生まれになった勝(しょ)幡(ばた)城から那古野城、清州城、小牧山城、岐阜城そして安土城と、そのご活躍の場に合わせて転々とされました。
信長様が清州城の次に移られた小牧山城は、清洲から北東に11Kmのところにあります。
その小牧山城は信長様が築城されましたが、私が秀吉様との戦いの為に改修したため、徳川の世になって立ち入り禁止となり、現代に入りましても小高い山のため宅地開発から外れました。
それで、最近の発掘調査から、信長様の城つくり、町つくりの仕組みや、貴重な物質資料で出てきているのでございます。
いつぞやの機会に、そのお話をさせていただければと存じます。
あっ、そうでございました。あの小牧長久手の戦いの時にも、私は清洲城に入ったことがございます。当時、尾張は信雄様の領地であり、信雄様は伊勢長島を本拠とされておられましたが、秀吉様と戦うにあたり私と同盟を結び、まず清洲城で合流したのでございます。
皆様も是非清洲城をご覧ください。また、清州公園には信長様と奥様の銅像も建っております。
なお、駅からは近いのでございますが、お城と反対の方向にちょっと行きますと、信長様の菩提寺の総見院がございますことを申し添えます。

 

丹羽慎吾

 

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