シンゴ歴史めぐり4 家康のつぶやき 松本城の巻

お城のお話の続きでございます。

私にとりましては、城は造りというよりも、その城に誰を、どうゆう目的で置くかが問題でございました。
前回は、姫路城、彦根城、犬山城、松本城が『国宝四城』であるとお話いたしました。

まず、姫路城は西国大名を監督するために山陽道の要衝になっておりました。

関が原の戦いの後に、池田輝政(1564年~1613年)を城主としました。
輝政は信長様、秀吉様、そして私に仕えた清洲生まれの武将でございます。
そして、輝政の祖母は信長様の乳母でもございました。

また、池田家には多くの家系がございますが、輝政の家系の美濃池田家の家紋の蝶は、信長様から下されたものを変形させたものでございます。
その輝政が現在の姫路城に拡張してくれたのでございます。
輝政が没しますと、長男の利隆(1584年~1616年)が姫路藩を相続致しました。
しかしその利隆の没後、嫡男の光政(1609年~年1682年)が幼かったことから、姫路藩因幡・伯耆二ヶ国に転勤となり、鳥取藩主となりました。

なお、輝政の次男は備前岡山藩主となり、3男は洲本藩主(淡路島)となっております。
その後姫路藩は、池田氏の次に徳川四天王の一人の本多忠勝(1548年~1610年)の息子の忠政(1575年~1631年)が藩主となりました。

これは一見すると理屈が通っているようですが、実は外様大名を譜代大名に置き換える体のいい処置でございました。

なお、本多忠政は私の孫の熊姫を正室にしておりました。
熊姫と申しますのは、私の長男の信康(1559年~1579年)と、信長様の娘御である徳姫との間に生れた二人の姫のうちの妹のほうでございます。
私は信康に自害をさせた後、可愛い孫娘たちを引き取って、大切に育てておりました。はい。
話を戻します。その後の姫路城は本多家、松平ニ家(越前、奥平)、榊原家が入れ替わり立ち代りし、1749年からは私の先祖の分家とも言うべき親藩の酒井家が藩主となっておりました。
姫路城は池田輝政に始まり、明治維新までに総勢23名が城主となったのでございます。

で、幕末に酒井忠(ただ)惇(とし)(1839年~1907年)は老中となりましたが、鳥羽・伏見の戦いで最後の将軍の慶喜に随行して大坂退去にも同道しましたので、戊辰戦争では姫路藩は朝敵の名を受け、官軍により攻撃されてしまったのでございます。
情けなくも慶喜が江戸城を無血開城して恭順の意を表明したため、忠惇も姫路城を早々に開城してしまったのでございます。

次に、彦根城ですが、その前に彦根藩は、皆様ご存知の赤備えの井伊直政(1451年~1602年)の長男の直継(1590年~1662年)を初代として、安政の大獄の第15代の直弼(1815年~1860年)を経て、最後の藩主直憲(1848年~1904年)までの16名の藩主がおり、彦根城はその藩主たちの居城でございました。ただし、井伊直政は関が原のあと賊軍であった石田三成の居城の佐和山城に入り、二年後に関が原の戦いの傷により亡くなりましたので、彦根城の完成を見ることはできなかったのでございます。
なお、幕末におきましは、1867年(慶応3年)の大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず、新政府側に藩論を転向させたのでございます。戊辰戦争では近藤勇の捕縛にもあたりました。酒井家、井伊家ともに譜代大名とは言え官軍には勝てなかったのでございます。はい。

犬山城は、尾張藩の付家老である成瀬家が9代に亘り城主を務めました。
あっ、付家老ともうしますのはもともと将軍直属のお目付け役みたいなものでございます。尾張藩は御三家の一つであり、竹腰家と成瀬家の二家が付家老で尾張徳川家を補佐していたのでございます。
しかし、犬山城は明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いて櫓・城門などほとんどが取り壊されたのでございます。

なお、ご存知かとは思いますが、犬山城は日本で唯一成瀬家の個人所有でございましたが、維持管理が出来ないとして2004年に財団法人に委譲されました。
成瀬家11代の正勝氏(1906年~1973年)は東大出身の国文学者で東洋大学、東大そして成蹊大学で教鞭をとられておりました。

そして、松本城でございます。この城も交通の重要な場所にあったのでございます。
もともと信濃は守護の小笠原氏が治めており、林城の支城の一つとして松本城の前身であります深志城がつくられたのでございます。
戦国時代には、一時、甲斐の武田氏が小笠原氏を追い出してここを拠点としておりました。
そして、信長様と私が甲州征伐で武田氏を滅亡させ、いろいろありましたが信濃甲斐は私の管理下に入りました。
そして信長様がお亡くなりになった翌年の1583年に、私は小笠原氏を復活させて城主と致し、名前も松本城としました。しかし、現在では、松本城の初代城主とされますのは、その後に現在の立派な城に作り上げましたのは私を裏切った宿老の石川数正(1533年~1593年)でございます。

秀吉様は1590年の小田原征伐で私に関八州を与え、数正に松本城を任されたのでございます。
そして、その後の松本城の城主は幕末まで6家にまたがり、23名と多いのでございます。
ここにも歴史がありますので、ちょっとご説明させていただきます。

石川家(初代、2代目) 1590年~1613年
石川数正は酒井忠次(1527年~1596年)とともに私の懐刀でございました。
私が今川氏の人質になったときも数正は一緒に行き、その後、私が独立してからも、姉川の戦い(織田徳川連合X浅井朝倉連合)、三方ヶ原の戦い(徳川家康X武田信玄)、長篠の戦い(織田徳川連合X武田勝頼)で期待以上に戦ってくれました。そして、信長様が亡くなり、秀吉様が政権を握られた時に、秀吉様との連絡役を、私は数正に任せたのでございます。
すると、でございますよ、私が秀吉様と戦いました小牧長久手の戦いの後に、数正は突如、秀吉様のもとへ逃亡してしまったのでございます。
それも子の康長(1554年~1643年)をも連れてでございました。
そして、小田原征伐のあと、数正は秀吉様から松本城を任されたのでございます。小笠原秀政は下総古河へ移されました。
しかし、2代目の康長は、あの江戸初期を揺るがした大きな汚職事件である大久保長安事件(1613年)に連座して豊後佐伯(さいき)(大分県)への改易となりました。
康長の娘が大久保長安の息子の藤十郎の妻だったのでございます。

改易の理由は分を超えた城普請が名目でございますが、しかし、これは改易というより、これまた体の良い外様大名外しでありましたことは皆様お分かりのことと思います。

小笠原家(3代目、4代目) 1613年~1617年
小笠原家は甲斐源氏の庶流ではありますが、格式や勢力では決して嫡流の武田氏に劣るものではございませんでした。先ほども申しましたが小笠原家は鎌倉時代に信濃に本拠を置き、室町時代は信濃の守護になっておりました。そして、その一族は京都にも移り、武家社会でその行事、習慣などの有職(ゆうそく)故実(こじつ)を継承、研究していく中心的存在となったことから、時の幕府から重用されたのでございます。これが今日に知られる小笠原流作法の起源でございます。

また、南北朝時代に後醍醐天皇から『弓馬の妙蘊(みょううん)に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり』という御手判(証明書)を賜り、このとき『弓・馬・礼』の三法を広めることとなりました。
その時に『王』の字の紋を与えられ、これが現在にも伝わる同家の三階菱の家紋でございます。
しかし、戦国時代には甲斐の武田氏に追われ、京都で信長様に仕え関東の大名たちへの対武田交渉の窓口をしておりました。

松本城主3代目となる小笠原秀政(1569年~1615年)の父の定慶(1546年~1595年)は
1982年に信長様が亡くなりますと、私に近づくために、子の秀政を人質として私に送って参ったのでございます。それで私は秀政を石川数正に預けて面倒を見させたのでございます。
そして、先ほど述べましたように、松本城を私は甲州征伐で得ていましたので秀政の父の定慶に与えたのでございます。

しかし、これまた先ほども述べましたように1585年に数正は私のもとを去り秀吉様に寝返りました。
その時に秀政も一緒に付いて行ってしまったのでございます。
そして、秀政はそれまで貞政と名乗っておりましたが秀吉様から『秀』を偏諱として頂いたのでございます。
その後、1589年に秀政は父定慶から家督を引き継ぐとともに、秀吉様の仲介で私と和睦し、私の孫娘を正室にしたのでございます。

その孫娘は先ほど申しました信長様にも孫娘にあたる、二人の姫のうちの姉の登久姫でございます。
しかし、父の定慶が1590年に秀吉様の怒りにふれて改易され、石川数正が松本城の城主になりますと、再び小笠原親子はそろって私のところに参り、私に仕えるようになったのでございます。
ということで、長くなりましたが、1613年に松本城2代目の石川康長を大久保長安事件で改易したあとに、私は小笠原秀政を彼の父祖の地である松本城主にしたのでございます。

しかし、秀政と彼の長男の忠(ただ)脩(なが)(1594年~1615年)は1615年の大坂夏の陣で討死し、忠脩の長男の長次(1615年~1666年)が幼年であったため、秀政の次男の忠(ただ)真(ざね)(1596年~1667年)が家督を相続し、4代目の松本城主となりました。

なお、忠真には2代将軍秀忠が偏諱を与えております。
また、私は、忠真の父と兄が大阪の陣で活躍したことを認めて、2万石の加増の10万石で播磨国明石に転封としました。その後、忠真は小倉に移り、子孫は幕末まで続きました。

長次系の小笠原家は最終的には播磨国安志(あんじ)(兵庫県姫路市)1万石に移り、歴代当主は小笠原氏ゆかりの信濃守を称しておりました。

戸田家(5代目、6代目) 1617年~1633年
5代目の戸田康長(1562年~1633年)は私の異母妹の松姫を正室としております。異母妹と申しますのは、私の母の於大(伝通院)が父広忠(1526年~1549年)に離縁させられ、再び嫁ぎました久松俊勝(1526年~1587年)との間にできた娘だからでございます。
ちょっとここで戸田氏とその後の松本藩主の系図を見ていただきます。
映りがあまりよろしくないようで、名前が細くて見難くて申し訳ございません。
戸田氏は三河国の渥美半島一帯を支配した一族でございます。
私は康長に『康』の偏諱を与え、また松平の姓も名乗らせました。

それで康長は戸田松平家の初代となるのでございます。
康長は小牧・長久手の戦い、小田原征伐、そして関が原でも武功を発揮してくれました。
さらに大坂の陣では2度ともよく戦ってくれましたので、小笠原氏の後に1617年に信濃松本藩に移ってもらったのでございます。

私の孫の家光(1604年~1651年)の守役となり、江戸城西の丸の警護を努めてくれました。
松本藩在勤中は加増分に見合う家臣団の再編成を行ない、城下町の建設や徒士・足軽屋敷を建てて集まって住むようにさせました。

1632年に死の床に付いた時には、家光は侍医を松本にまで遣わしました。
現在では松本城の北側にございます松本神社の祭神の一柱として祭られ、明治時代には子孫の一人によって建立された北海道雨竜神社に祭神として祀られているのでございます。

康長が亡くなりますと、長男忠光が早世していたため、三男の康直(1617年~1634年)が家督を継ぎました。
しかし、康直は翌年の1633年4月に播磨明石に移封となり、その次の年に、家光の上洛があり、それに先立ち江戸を出発したのでございますが、途中で病を得て鈴鹿にて亡くなったのでございます。享年18才でした。
世継ぎがなく本来であれば断絶となるところを、父祖の活躍が幕府に認められ兄忠光の子光重に家督を相続させることができたのでございます。

戸田氏はこのあとにも松本藩と継ぐことになりますので、この二人を先(さきの)戸田氏と呼び、1726年から幕末まで続く9代の戸田氏を後戸田氏としております。

松平家(7代目) 1633年~1638年
戸田氏の後を継ぎましたのは、私の次男結城秀康(1574年~1607年)の三男の松平直政(1601年~1666年)でございます。
なお、結城秀康の長男は菊池寛の『忠直卿行状記』で、ご乱行大名として有名になりました忠直(1595年~1650年)でございます。
弟の直政はその兄から偏諱をもらっているのでございます。
直政は大坂夏の陣で兄・忠直に従って活躍し、敵将・真田幸村をはじめとする多くの敵将兵の首を獲り、大いなる戦功を挙げてくれました。

大坂の陣の後、その戦功を評価して私の打飼(うちかい)袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えました。
兄の忠直は父秀康から越前75万石を相続しておりましたので、弟の直政の活躍を賞賛し、自身の領内に1万石の所領を与えております。

なお、忠直について申し添えますと、私の次の将軍秀忠も忠直を気に入り偏諱を与え、さらに娘の勝姫をも正室にさせております。

その忠直が徐々に幕府への不満をつのらせ1623年に乱行や秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて越前から豊後国に配流されますと、弟の直政は1624年6月に上総姉ケ崎藩から兄が治めていた越前大野藩5万石に加増移封となりました。そして、戸田家が途絶えた1633年に信濃松本7万石へ加増されて来たのでございます。直政は翌年に松本城に月見櫓、辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行いました。
これは3代将軍家光が上洛の帰りに木曾路を経て善光寺参詣の後に松本に立ち寄る予定があったからでございました。しかし、1638年に出雲松江18万6,000石(隠岐1万4,000石を代理統治)へ加増移封され、国持大名となって行ったのでございます。

堀田家(8代目) 1638年~1642年
松平直政の後には3代将軍家光の近従でございました堀田正盛(1608年~1651年)が川越から入りました。
とは言え正盛は松本城へはその年の一回だけなのでございます。
と、言いますのも、政盛は家光の乳母である春日局の夫の先妻の娘と堀田正吉の間に生まれ、春日局にとり義理の孫にあたるからでございます。

正盛は家光が将軍となりますと近習に取り立てられ、寵臣として瞬く間に出世して行きました。
その後も、家光に深く寵愛され、1635年に老中に就任し、武蔵川越3万5千石の藩主となり、はじめて城主となりました。松本藩に転封となったときには、他の領地も合わせて10万石となり、歴代松本城主のなかで最大の大名でございました。

しかし、正盛は4年後の1642年には下総佐倉藩11万石へ加増転封となったのでございます。
そして、正盛は1651年に家光が亡くなりますと殉死しているのでございます。享年44歳です。
正盛の異例とも言える出世と、家光への殉死から二人の間には男色関係があったのでないかと言われる所以でございます。

水野家(9代目~14代目) 1642年~1725年
堀田正盛の後には三河吉田から水野忠清(1582年~1647年)が入りました。
水野家は私の母、於大の実家なのでございます。
松本藩主となりました水野忠清は私の母の弟の水野忠重(1541年~1600年の
4男でございます。つまり、忠清は私にとり従兄弟になるのでございます。
水野氏の家督は忠清の兄が継いだため、忠清は2代将軍秀忠の家臣として仕えました。
1614年からの大坂の陣では冬、夏の両陣とも参戦し、夏の陣では敵の主戦派の一人である大野治房(?~1615年)を破るという大功を挙げてくれました。

忠清は、この時に同僚と先陣を競い行賞をめぐって争ったため、私は閉門を命じました。
そして、私が亡くなる前にその閉門を解いてあげました。
その後には、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、三河刈谷2万石、そして三河吉田4万石に転勤となり、松本7万石と加増されたのでございます。

水野氏は松本藩主として6代83年在城しましたが、6代目の忠恒(ただつね)(1701年~1739年)が1725年に江戸城の松の廊下で刃傷事件を起こしてしまい改易となってしまったのでございます。
あの忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の事件の24年後でございます。
なお、松の廊下の刃傷沙汰は江戸時代には全部で9件あったことを申し添えます。

そもそも忠恒は嫡男ではなかったため、後を継ぐことが難しく日頃から酒色に耽っており、みだりに弓矢を射ったり、鉄砲を撃つなどの奇行がたびたび見られました。しかし、1723年に兄の水野忠(ただ)幹(もと)(1699年~1723年)が跡取りがなく没したため、遺言により松本藩主に就任したのでございます。

藩主になってからも相変わらず酒に溺れて狩猟ばかりし、藩政は家臣任せでした。
1725年に大垣藩主戸田氏長の養女を娶り、その祝言を行なった翌日に8代将軍吉宗に婚儀報告をするため江戸城に登城して報告を済ませました。

そのすぐ後に、松の廊下ですれ違った長府藩の跡継ぎであった毛利師就に対して刃傷沙汰を起こしてしまったのでございます。

忠恒は自分の領地が取り上げられて師就に与えられることになると思い込んでしまったので切りつけたと供述しましたが、実際にはそのような事実は無く、乱心したためとされました。
忠恒はその罪で改易となり、川越藩に預けられた後、叔父の江戸屋敷に蟄居し、そこで亡くなりました。
なお、この忠恒の末裔で、同姓同名の水野忠恒(1951年~)は、東大法学部卒の日本の法学者(租税法)であることを申し添えます。

戸田家(15代目~23代目)
水野忠恒の改易のあと、しばらく松本は幕府直轄としていましたが1726年に戸田光慈(みつちか)(1712年~1732年)が志摩鳥羽から6万石で入封し、そのあとは、戸田氏が9代続いて明治維新を迎えました。
光慈は松本城主5代目の戸田康直の系列でございます。

そして、松本城最後の城主は戸田光則(みつひさ)(1828年~1892年)でございます。
幕末の1868年(慶応4年)1月に徳川慶喜から碓氷関の守備を命じられました。そして、藩論を勤皇にまとめ、官軍の松本到着直前に恭順してしまいました。

その後、北越戦争や会津戦争に参戦し、戦功により翌年に3000石を下賜されました。
1869年(明治2年)6月に版籍奉還を許可され知藩事となりました。
そして、1871年(明治4年)7月、廃藩置県で免官となってしまったのでございます。
さらに、太政官布告により、初代康長以来下賜されてきた源姓松平氏・三つ葉葵紋を返上し、戸田氏に戻ったのでございます。

ここで松本城の城主となりました6家について簡単にまとめてみました。
松本城は大名にとり、出世城でしたのでしょうか、それとものろわれた城であったのでしょうか?以上で松本城の城主に関するお話は終わらせていただきますが、松本へは特急列車であれば、名古屋から2時間、東京から2時間半、大阪から3時間半の距離でございます。

なお、松本城が国宝である、ということは建物が古いということでございます。
8月の夏休みに三河から松本城に日帰りで行かれた方が、天守に上がろうとすると、昔ながらの急な狭い階段であり、昇り降りで半分ずつに仕切ってあるため、待つ人が群れをなしていたので、二階までであきらめて降りてきたと云っておられました。

それで、今度は観光シーズンを外してもう一度行き、天守の最上階から松本の山並みを眺めるのだともおっしゃっていました。

松本はお城ばかりでなく、町並みも昔の城下町を残そうとしております。
また、松本は信州ですので、蕎麦どころでもありますが、馬肉料理もございます。
日本で馬の肉を食べる県は熊本県と長野県だけと聞いております。

それは、さて置くとしましても、是非とも松本および松本城に行かれて、徳川の世のことを思いだしていただければと存じます。

 

丹羽慎吾

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