シンゴ歴史めぐり3 家康のつぶやき お城の巻

突然ではありますが、皆様は『お城』にご興味がおありでしょうか。

『お城』と言えば、皆様が抱かれるイメージは高くそびえる天守があり、水堀の近くに櫓(やぐら)があり、白い塀が連なり、大手門のある大坂城や姫路城ではないかと存じます。

えっ、天守と櫓の違いは何かですって、早速のご質問でございますね。

お城の構成につきましては、後ほどお話しさせていただきますので、少々お待ち願います。
そもそも、お城の目的は何かと申しますと、敵を攻めて行くというよりも、建物にこもって外敵から守るということでございます。

例えば、佐賀県にございます古代の吉野ヶ里遺跡も、外敵から守るために環濠(かんごう)があったり、物見櫓がありますので、お城の走りといってよいのではないでしょうか。
そして、戦国時代からのお城はその建てられた場所によって山城(やまじろ)、平山(ひらやま)城(じろ)、平城(ひらじろ)に分かれているのでございます。

「山城」は山や丘の山頂付近に建てられた城でございます。
「平山城」は山城よりも低い丘陵に作られた城で、桃山時代以前に多く見られる城でございます。
「平城」は桃山時代以降の近世に作られた城が多いのでございます。
これらの区分には明確な定義がございませんので、皆様の判断にお任せいたします。
ただ、山城には水を溜める堀を作るのは難かしゅうございますので、空堀が殆どでございます。
お城の作り方は、あの関が原の戦いの前後で大きく変わったのでございます。
信長様の安土城、秀吉様の大坂城や、私の江戸城、名古屋城などの天下普請で、築城の技術が日本中に広まって行ったからでございます。

しかし、私は1615年5月の大阪夏の陣のあとの閏6月に『一国一城令』を、7月に『武家諸法度』を幕府に出させ、大名たちの築城への規制を行いました。
『一国一城令』と言いますのは、「ひとつの国にひとつの城」しか認めないというものでございます。
しかし、ひとつの国を複数の大名が治めている場合や、一人の大名が複数の国を治める場合は例外と致しました。
ひとつの国を複数の大名が治めておりましたのは、四国伊予国(愛媛県)の4人の大名で、今治城、松山城、大洲城、宇和島城の四つの城がございました。

また、藤堂家のように一人で伊勢国の津城と伊賀国の上野城を治めている場合は二つの城を持てるようにしました。例外のない規則はないのたとえでございます。
しかし、『武家諸法度』によって、お城の新設、修理などにつきましては、幕府への事前許可制度にしたのでございます。
許可を得ないで大名が内緒でお城を修理致しましても、隠密や幕府からの監査が入りますので、すぐに分かるようにはなっておりました。
しかし、この法度を出して時が経ちますと小さな修理にいちいち事前許可としておりますと、手間がかかるため、石垣、土塁、堀に対しては従来どおり事前許可とし、櫓、門などは元通りの修理であれば許可は不要としたようでございます。

また、『武家諸法度』により、大名によるお城の新規建設を原則禁止としましたが、幕府にとっては、それはそれ、これはこれの運用でございました。これまたあの例外のない云々でございます。
例えば、秀忠の時代には西国の外様大名の備えのために、明石城(1617年)、福山城(1620年)などを築いております。

また、天下普請として、大阪の陣で焼け落ちた大坂城の再建、京都の二条城の拡張、江戸城の増築なども引き続きおこなったのでございます。
さらに、外様大名でも転勤先に、その禄高に見合う城がなかった場合には築城を認めました。
白河小峰城(丹羽長重、1627年)、赤穂城(浅野長直、1648年)などでございます。
さて、お城といえば皆様ご存知なのは天守、つまり戦時の司令塔でございますね。
江戸時代に作られた天守で現在残っておりますのは、12基だけでございます。
それらは次の城でございます。築城順に並べてみました。

これらのうち姫路城、彦根城、犬山城、そして松本城が国宝に指定されておりますので『国宝四城』と呼ばれ(注:2015年に松江城が国宝天守に加わり、現在では『国宝五城』となっております)、他の8基の天守は国の重要文化財なので『重文八城』と呼ばれております。

なお、この前の外国との戦争の前にはこれら12基のほかにも8基ありましたが、戦争で7基を焼失し、戦後の火災で1基の天守を失っているのでございます。
戦争で焼失しましたのは水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城の7城の天守で、松前城の天守を1949年の失火により焼失してるのでございます。
これらの焼け落ちた城の天守を現在でも見ることができますが、それらは戦後に立て直されましたものでございます。

この戦後に復興した天守は大きく分けて次の四つに分類して呼んでいるようでございます。

(1)復元天守 :かつて天守があった場所に外観だけでなく内部も同じ姿で再建したものでございます。天守の再建は簡単なように思えますが、昔の設計図がなかったり、当時の工法が不明なものでございますので建てることがなかなか難しいのでございます。
また、これらの復元天守は平成のお城復興ブームにより昔のままの木造で建築されています。この復元天守は1992年の白河小峰城(福島県)が第一号でございます。
そして白石城(宮城県、1995年)、掛川城(静岡県、1994年)、新発田城(新潟県、2004年)、大洲城(愛媛県、2004年)などと続いていっております。

(2)外観復元天守:建築基準法で三階建ての木造建築の許可が下りなかった昭和の時代に鉄筋
コンクリート造りで建てられた天守でございます。
外観はかつての天守と同じ姿で作られた城でございます。
この外観復元天守には松前城(北海道、1960年)、会津若松城(1965年)、高島城(長野県、1970年)、名古屋城(1959年)、大垣城(岐阜県、1959年)、和歌山城(1958年)、岡山城(1966年)、福山城(広島県、1966年)、広島城(1958年)そして熊本城(1960年)などでございます。

(3)復興天守 :天守の位置や規模はかつての天守とほぼ同じでございますが、外観がちょっと違っている天守のことでございます。
たとえば、秀吉様の大坂城の天守は1665年に落雷により天守を焼失し、それ以降天守を持たないお城でございましたが、300年近くたちました1931年(昭和6年)にコンクリートで建て直されました。
この元となる外観はあの『大阪夏の陣図屏風』から再現したのでございます。
現代の人々が歴史に忠実に再現したのでございますが、建設後に豊臣時代の天守台が別の場所から見つかったのでございます。
それで現在の大坂城は『徳川の天守台』の上に『豊臣の天守』が載っている形なのでございます。
この他の復興天守には高田城(新潟県、1993年)、越前大野城(1968年)、大多喜城(千葉県、1975年)、小田原城(1960年)、私の生まれました岡崎城(1959年)、岐阜城(1910年)、小倉城(1959年)、島原城(1964年)、杵(き)築(づき)城(大分県、1970年)などがございます。

(4)模擬天守 :これは天守の規模、位置、外観が分からないのに再建したものでございます。
中には天守があったかどうかもわからない中世の城に天守を建てたところもございます。いかに日本人がお城が好きであるかがわかるのでございます。
この模擬天守は日本中に多くみられるのでございます。
三戸城(青森県、)、横手城(秋田県)、上山城(山形県)、忍城(埼玉県)、関宿(せきやど)城(千葉県)、久留里城(同)、館山城(同)、富山城、勝山城(福井県)、郡上八幡城、墨俣城、浜松城、清洲城、小牧山城、伊賀上野城、長浜城、岸和田城、洲本城(兵庫県)、今治城、唐津城、平戸城、中津城などの天守でございます。
かつては、お城復元ブームというのがございました。

第一次のブームのはしりは昔の時代となりつつあります昭和29年(1954年)の富山城の模擬天守の建設でありました。そして、昭和30年代、40年代の『天守閣復興ブーム』や『お城復興ブーム』などと呼ばれるものでございます。この時代には主に天守の復興が多く行われました。
1988年(昭和63年)の竹下将軍、いや竹下首相の『ふるさと創生事業』が実施されてからは、文化庁などの方針によりまして史跡での再建行為が忠実なものであることが求められるようになったのでございます。
それで、先ほど申しました1990年(平成2年)の白河小峰城の三重櫓の木造復元から、資料に基づいた木造での復元や復興が原則となったのでございます。

それで、この時期を『平成の復興ブーム』や『第2次復興ブーム』と呼ばれているのでございます。
この時期は、天守に限らず、櫓や城門、御殿、土塁、石垣などの復元、また出土した中世・戦国の城郭を再現した事例がたくさんございます。

しかし、伝統的な技法での復元工事では、建築基準法や消防法等に触れますので、門や櫓は人の立ち入りが制限されましたり、天守に至っては高さや防災上の規制により建築自体ができないなどのジレンマもございました。
復元されました建物内部は、概ね郷土博物館や歴史資料館として一般開放されていることが多いのでございます。

さて、続きまして先ほどご質問がございました天守と櫓の違いについて述べさせていただきます。
え~と、その前に天守や櫓の大きさを、二重三階とか三重五階とか申しますが、これは『重』が屋根の数を、『階』が内部の階数を表すのであることを申しあげておきます。

まず、櫓と申しますのは、もともと物見をするための仮設の建物でございました。
それが少しずつ大きくなりまして二階建て、三階建てになって行ったのでございます。

一方、天守は戦いの時の最強、最終の兵器と言ってもよく、城で籠もって戦う時の司令塔でした。
それで、天守自体にも敵を寄せ付けないようにするための防備設備が備えられているのでございます。しかし、天守と櫓の大きさやその装飾だけでは『三重天守』と『三重櫓』の区別が難しいのでございます。たとえば三重五階の熊本城の宇土櫓は三重三階の宇和島城の天守よりもはるかに大きいのでございます。
熊本城はご存知『築城の名人』加藤清正が築きました。清正はこのほかにも名護屋城、蔚山倭城(韓国)、江戸城、名古屋城など数々の築城に携わっております。
宇和島城は、これまた築城に長けた藤堂高虎でございます。
高虎はこの後に今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築いております。
と、ここまで、いろいろな城についてお話してまいりましたが、最後に私の城、江戸城について、少し述べさせていただきます。

そもそも江戸の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継(生没不詳)でございます。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後に江戸城となります本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていようでございます。
1400年代に江戸氏が没落したのち、室町幕府の武蔵守護代であった扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家臣でありました太田道灌(1432年~1486年)が1457年に江戸城を築きました。
これが江戸城のはじまりとされております。
道灌が主君の扇谷上杉氏に妬まれて暗殺された後、江戸城は扇谷上杉氏の所有となっておりましたが1524年に扇谷上杉氏を破りました後北条氏の北条氏綱(早雲の子、1487年~1541年)の支配下に入ったのでございます。
江戸城は南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路がございましたので、関東の内陸から利根川・荒川を経て品川・鎌倉そして外洋に向かうための交通路の重要なところに位置していたのでございます。

そして、1590年の秀吉様の小田原攻めの後に、関八州が私に与えられ、江戸城もその時に私に与えられたのでございます。
私は1590年8月30日に入城し、それ以後は徳川家の居城としたのでございます。
私が江戸城に入りましたころは、道灌が築城した時のままの小規模で質素な城でございました。
私は関ヶ原の戦いの後の1603年に幕府を開くまでの間に、本丸・二ノ丸、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築しました。また堀や道路などの町つくりも同時に行いました。
その後も天下普請として江戸城の拡張に着手したのでございます。
神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行ったのでございます。
1606年には諸大名から石材を運送させ、江戸城の増築をいたしました。
その時のその工事分担は皆様もご存知の次の大名たちでございます。

外郭石壁普請 :細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
天守台の築造 :黒田長政
石垣普請 :山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
本丸の普請 :吉川広正、毛利秀就、
江戸城の天守は私の時代のものを含め慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれております。
寛永度天守は5重5階で、高さは石垣部分を除きまして44.8mございました。
日本武道館が42mでございますから、それよりも高い天守だったのであります。
ちなみにパリの凱旋門は49.5mでございます。
高さが31.5mの姫路城と比較いたしますと面積で2倍、体積で3倍の規模でございました。
日本で最も壮大で美しい木造建築の最高傑作でございました。

しかし、この天守は1657年の振袖火事で有名な明暦の大火で焼失してしまい、そのままとなっておるのでございます。この明暦の大火では江戸の街の大半が焼き尽くされ、江戸の人口50万人のうち10万人以上の生命(いのち)が奪われたのでございます。

この未曾有の大災害に陣頭指揮で対処しましたのが、私の孫の3代将軍家光(1604年~1651年)の異母弟の会津藩主の保科正之(1611年~1672年)でございました。
江戸城天守は、江戸幕府の権威と権力の象徴ではございましたが、保科正之が今はその再建のために、国の財産を費やす時節ではないと判断し、先に延ばすことを決定したのでございます。
この保科正之の英断が、それ以降200年にわたる江戸期の社会の平和と安定の礎となり、元禄、文化・文政の江戸文化が花開くこととなったのではないかと考える次第です。
さすが私の血を引いているだけのことはございます。
お江よ、秀忠のたった一度の浮気を許してあげなさい。

江戸城は徳川幕府崩壊後の明治維新後の東京奠都(てんと)で皇居となっていったのでございます。
私は皇居と呼ぶよりも、江戸城と呼んだ方がふさわしいのではないかと思っております。

そして、現在の江戸城には天守はございませんが、明暦の大火の後に御影石の天守台が前田家4代藩主の前田綱紀(1643年~1724年)によって築かれ現在も残っております。

余談になりますが、この前田綱紀は私にとっても、また前田利家にとってもひ孫にあたります。
そして、綱紀の正妻は保科正之の娘なのでございます。

さて、江戸城の中心部にございました本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されておりますし、南東側の皇居外苑と、北側の北の丸公園は常時開放されております。

是非一度、徳川家の城であった江戸城を、皆様に見に来ていただきたく存じます。

なお、申し添えますと、世界の大都市にはその国を代表する歴史的、文化的建物がございます。
ロンドンのバッキンガム宮殿、パリの凱旋門、ベルサイユ宮殿、北京の紫禁城、ニューヨークの自由の女神などでございます。

しかし、世界5大都市といわれる東京には、それに見合うものがございません。
それで、江戸城の天守を再建しようという動きがありますことをお伝えして、今回のお話をお開きにさせていただきたいと思います。次回からは日本のあちこちのお城に関するお話を私なりにご説明させていただきたいと考えております。はい。

参考図書: 学研雑学百科『お城のすべて』 三浦正幸 監修

丹羽慎吾

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です