シンゴ歴史めぐり10 家康のつぶやき 女城主の巻 午後の部

はい、みなさん、こんちには、女城主の巻、午後の部のはじまりでございます。

お食事はいかがでしたか。今日は私が住んでおりました浜松から「うなぎ蒲焼の特上」を取り寄せて皆様方に味わっていただきました。美味しい肝吸いもつけておきました。

うなぎと言えば、その裂き方に関東は武士が多く切腹を嫌うので背開き、関西は商人が多く腹を割って話すので腹開きがあるのを御存知ですよね。

では、その背開きと腹開きの境が、日本のどの辺にあるか御存知でしょうか?

それは、岡崎なのですよ。私が生まれたところでございます。

 

さて、鍋島藩、これは藩主が鍋島家で継続していたための呼び名で、正式には佐賀藩が正しいのでございます。また、肥前藩と呼ばれたりすることもございます。

さて、佐賀は焼き物で有名なところでございますよね。

その焼き物を作る人たちは、鍋島藩の藩祖、直茂(1538年~1618年)が朝鮮の役のときに、あちらから連れてきた陶工たちが、有田焼、伊万里焼、唐津焼などを作っていったのでございます。

私の生まれ育った三河や尾張、はたまた東日本では、焼き物のことを昔から瀬戸物と申すのでございますが、昔の西日本では九州北部で作られた焼き物が、唐津港から船に積まれましたので、唐津物と申しておりました。ところ変われば、呼び名変わるでございますね。

そういえば、「日本海」のことを「東海」と呼べと主張したり、中には「朝鮮東海」とか「朝鮮海」とか呼べと叫んでいる国があるやに聞いております。すざましい限りでございますね。あの世は。すみません、私は本題に入る前に、落語でいうマクラが入ってしまうのでございます。はい。

さて、佐賀の化け猫騒動の元となったお話は次のようなあらすじでございます。

佐賀藩の二代藩主・鍋島光茂(1632年~1700年)の時代のことでございます。

光茂の碁の相手を務めていたのが、臣下で盲目の青年、龍造寺又一郎でございます。

はい、龍造寺がキーワードでございますよ。その龍造寺又一郎が藩主光茂の機嫌を損ねたために、切り捨てられたのでございます。その場面を芝居風にいいますと。

光茂     あっ、待った、待った。

又一郎 またでこざいますか。仕方ございませんな。

光茂    これも、ちょっと待った

又一郎 殿、それは、なりませぬ。待ったをされるのであれば、この勝負、私の勝ちということで、、、

光茂     又一郎、固いことを言わずともよいではないか。

と、光茂が笑いながら石を戻しかけると、又一郎が光茂をなじるようにいいました。

又一郎  なるほど、遊びには、人の性格が表れるとは、よくぞ申したもの

その又一郎の言葉に光茂はカチンと来て、気がついたときには手元の脇差で又一郎を切り捨てていたのでございます。

そして、又一郎の死体は城内の古井戸に投げ捨てられてしまったのでございます。

その頃、又一郎の年老いた母は、いつもより遅い又一郎の帰りを、何かあったのかしら、まだ帰らぬか、まだか、と胸騒ぎを覚えながら、時を過ごしていたのでございます。

そして、可愛がっていた飼い猫のコマに、思わず独り言のようにつぶやいたのであります。

母        お前が人間ならすぐにでも、あの子の様子を見に行ってもらえるのに

すると、コマの姿が見えなくなりました。そして、しばらくして、コマが再び現れますと、なんと、その口に変わり果てた又一郎の首をくわえていたのでございます。母はわなわなと怒りにふるえ、そして、何か心に決めたように、コマに言ったのでございます。

母        コマよ、私の血をすすって、この恨みを必ず果たしておくれ

そして、母は短刀で自分のノドを突いて命果ててしまったのでございます。

コマは、母の流れる血をなめ尽くすと、屋敷から姿を消してしまいました。

すると、この日から佐賀城内では次々と怪異な事件が起こり始めたのでございます。

藩主の光茂は、夜な夜な高熱に悩まされ、うわごとを言うようになりました。

龍造寺家のたたりとの噂がささやかれ、おびえと不安が広がったのです。

はい、龍造寺のたたりということばで出てまいりましたが、これも、後ほどゆっくりとご説明いたします。

そして、お城の方でございます。近習の小森半左衛門が光茂の近辺に目を配りますと、光茂のお気に入りのお豊の方のそぶりに奇妙なところが感じとれるのでありました。

半左衛門は、槍の名手の千布本右衛門(ちぶほんえもん)を呼びつけて言い渡しました。

半左衛門          よいか、くれぐれもお豊の方には、気づかれぬように、殿の身をお守りするのだ

その夜更け、生暖かい風が吹き、本右衛門は眠くなるたびに膝に錐(きり)を立て、痛さで眠らぬようにしていました。そのうちに、物陰から猫の鳴き声がしたのです。息を潜めていると、障子に映るお豊の影が巨大な猫の姿に変わったのです。本右衛門はすかさず槍を繰り出しました。

本右衛門          何者じゃ、下がりおれっ!

お豊の眼が青白く光りました。その時、本右衛門の槍が見事にお豊の方のわき腹を貫き、同時にすざましい悲鳴が起こりました。

それでも、お豊の方はらんらんと眼を光らせ、本右衛門に猛然と飛び掛ってきました。

そこを本右衛門はひるまずに刺したのです。

やがて、叫び声はやみ、夜明けの光が射し始めました。

槍の先に倒れていたのは真っ赤な口が耳までさけた巨大な猫でした。

そして、藩主の光茂は又一郎とその母と手厚く弔って霊を慰めたのでございます。

そうすると、光茂の病もしだいに治り、城内も平穏になったのであります。なぜ、このような物語が佐賀で作られたかといいますと、佐賀鍋島藩の成立に関わってくるのでございます。先ほどからお話しておりますキィーワードの龍造寺家と鍋島家の関係でございます。

それに女城主といわれた慶誾(けいぎん)様が絡んでくるのでございます。

ちょっと歴史を遡って、お話をさせていただきます。

もともと佐賀、つまり、当時の肥前や筑前など北九州は鎌倉時代からの守護の少弐家(しょうにけ)が治めておりました。その少弐家の配下で頭角を現してきたのが龍造寺家でございます。

特に名をならしめているのが、龍造寺家兼(1454年~1546年)でございます。

当時、山口の守護大名の大内義隆(1507年~1551年)も九州を狙っておりましたが、家兼がこれを防いでいたのでございます。

しかし、主家である少弐資元(すけもと)(1491年~1536年)が、大内氏による和議を装った謀略に係り1536年に自害してしまいました。

資元の子の冬尚(ふゆひさ)(1529年~1559年)は、まだ小さかったので逃げ延びて、龍造寺家兼などの力を借りて少弐家を再興したのです。

そして、龍造寺家兼はその武功により家臣筆頭まで出世しました。

ところが、よくある話で。この家兼の出世を妬んだ少弐家の家臣馬場頼周(よりちか)(?~1546年)は家兼が大内義隆と組んで、謀反があったとして、1545年に家兼の子二人と孫4人を殺してしまったのであります。

一族の大半を失った龍造寺家は老齢の家兼が最後の力を振り絞り、その翌年、龍造寺家の家臣である鍋島清房(1513年~?)の力を借りて馬場頼周を討ったのでございます。

そして、家兼は同じ年に力が尽きて亡くなってしまいました。93歳の大往生でございました。

家兼の孫の周家(ちかいえ)(1504年~1545年)は、前の年に馬場頼周によって殺されていましたが、同じ龍造寺家の一族から嫁をもらっておりました。それが、慶誾(けいぎん)様でした。

周家と慶誾様との間には1529年に隆信(1529年~1584年)が生まれておりました。

隆信は生まれた時から容貌雄偉(ようぼうゆうい)、眼光炯炯(がんこうけいけい)であったとされ、幼くして聡明であったので、家兼の三男が和尚をしていた宝淋院というお寺に入り、出家していて、少弐家に殺されずにすんだのでした。

1545年に父たちが殺され、家兼から龍造家の復興は隆信しかいないとの遺言により、17歳で還俗し、さらに1548年に隆信は19歳で龍造寺一族の代表者になったのです。

その隆信を実質的に補佐したのが、女城主といわれる母の慶誾様だったのであります。しかし、1550年代に入ると、この若き当主に対する不信感から、反逆する家臣が出てきました。

そんなとき、慶誾様は龍造寺一族の将来を心配し、家臣団の分裂を回避しようとして行動されたのでございます。つまり、1556年になんと、慶誾様は妻をなくしていた重臣の鍋島清房の押しかけ女房となったのであります。

慶誾様48歳のときでございました。回りの者たちをびっくりさせた慶誾様は次のようにいいました。

慶誾     今、天下さだまらず、諸侯が雄を競うて威をたつる所以は人を得るにある。吾、当家の

諸士をみるに、鍋島の子、信昌に如くはなし。彼と隆信と兄弟の縁を結べば、吾が家を興すことができよう。

鍋島清房には亡くなった妻との間に信昌(のちの直茂)(1538年~1618年)という息子がいたのです。なお、この直茂は鍋島藩の藩祖といわれる人物となります。

また、慶誾様の前夫と、清房の亡くなった妻とは兄妹の関係でしたから、龍造寺隆信と鍋島直茂は従兄弟であり、義兄弟という複雑な関係になるのであります。

そして九州三国志の一人、豊後大分の大友宗麟との1570年の今山の戦いのときであります。

大友軍は龍造寺の佐賀城に6万の大軍で持って攻めてきたのでございます。

このため、敗色濃厚となり、城内の士気は下がり気味になり、隆信や直茂らは大友軍に降伏しようと考えていたときでございます。慶誾様が薙刀を持って現れ叱咤したのでございます。

慶誾     私のみるところ、城中のものは皆、敵の猛威に呑まれ、猫に会うたねずみのようだ。今夜、敵陣に切りかかり、死生二つの勝負を決することこそ男子の本懐ではないか

この慶誾様の言葉により、鍋島直茂は今山の大友本陣に夜襲をかける決意をし、わずか17騎で佐賀城を出発し、道々で、加勢の兵を得て、3百余名となり。早朝敵陣に奇襲を掛けて大友軍を撃退させたのでございます。

また、鍋島家の家紋である杏葉(ぎょうよう)の紋は、この戦いで直茂がかがり火の中に美しく照り映えた大友家の家紋を戦勝の記念に自らの家紋として奪ったものと伝えられます。

なお、この戦いは佐賀の桶狭間とも呼ばれております。

そして、1584年に龍造寺隆信が島津・有馬連合軍との沖田畷(なわて)の戦いで討ち死にすると、慶誾様を交えた龍造寺一族は筑後柳川城を守っていた鍋島直茂に国政を見るように依頼し、慶誾様自らも政務に関与されたのでございます。

これで龍造寺家は実質的に鍋島直茂(1538年~1618年)が実権を握ることになりました。

 

そして、1587年の秀吉様の九州出兵では、龍造寺隆信の子の政家(1556年~1607年)は鍋島直茂とともに秀吉軍として出兵しました。島津氏が秀吉様に降伏すると、政家は秀吉様から肥前一国を与えられました。しかし、政家はこれを不服としたため、秀吉様から怒りを買ったのでございます。それを直茂の取りなしたにより事なきを得ました。

そして、政家は肥前一国を与えられたお礼に上洛し、侍従に任ぜられましたが、体が弱く、長くお勤めをすることができませんでした。

しかし、彼の子の高房(1586年~1607年)は幼すぎましたので父の代理を務めることができませんでした。そこでまた慶誾様のお言葉です。

慶誾     今、飛騨守(鍋島直茂)以外には、天下にご奉公を続け、家を存続することのできる者はいない。直茂は隆信と兄弟であるので、(隆信の子の)政家の家督は直茂がついで当然である。そして、(政家の子の)高房は直茂が取り立てるべきである。

この慶誾様の提言に皆の意見がまとまったのでございます。

1588年に政家は子の高房を鍋島直茂の養子とし、直茂に龍造寺の名字を与えたのでした。

1590年に政家は病弱を理由に35歳で隠居し、龍造寺の家督は子の高房が5歳で継ぐことになりました。しかし、そのことによって鍋島直茂への政権移譲がいっそうすすむことになったのです。

と、いいますのは、秀吉様は政家が隠居する直前に、政家の3万余石の知行割りを認められましたが、高房には実質4万2千石、父政家には5千石、一方、鍋島直茂には4万4千石、子の勝茂には9千石と、実質石高では鍋島親子が当主の龍造寺親子を上回ったのでございます。

しかし、直茂はその後も政家、高房親子と守り立て行ったのでございます。

秀吉様の二度にわたる朝鮮出兵(1592年~1598年)では、肥前唐津に名護屋城が築かれました。朝鮮出兵の7年間で在陣10万、出兵20万、合計30万人もの人が名護屋城周辺に集まったといわれます。

最初の出兵である文禄の役(1592年)で、鍋島直茂は加藤清正の二番隊に属しました。

慶長の役(1597年)でも、鍋島直茂は子の勝茂(1580年~1657年)と参戦しています。

そして慶誾様のことでございます。

この秀吉様の朝鮮出兵時のときです。秀吉様が大阪から名護屋城に向かわれる道中に、切った竹の上に戸板をのせ、それに堅く握った握り飯を置いておいたそうでございます。

秀吉様はそれを手に取り、「龍造寺の後家がしたことであろう、道中食べ物がなくて難儀をするであろうとて、用意してくれたのであろう。武士の家は女までがこのように気をつかうのだ。この堅い握り飯をみよ」とお褒めになったとのことでございます。

私も秀吉様からこのお話を、大阪城で何度も聞いたものでございます。はい。

 

そして、秀吉様がお亡くなりになり、私と石田様との関が原の戦いでは、龍造寺・鍋島軍は石田軍についたため、両家にとり最大の危機となりました。しかし、直茂の次男忠茂(1584年~1624年)を江戸に人質にだすなどしましたので、領国削減を見逃して上げたのでございます。

 

そして、私が征夷大将軍となりました1603年のことでございます。

龍造寺政家の子、高房は従5位下・駿河守に任ぜられて江戸で私の子の秀忠に仕えることになりました。しかし、その4年後の1607年の3月に、高房は邸内で妻を刺し、自分も腹を切るという自殺未遂を起こしたのでございます。

その時は、近臣が飛びついて刀を奪い取ったので命を取り留めたのですが、同じ年の秋9月に諸大名の乗馬大会に参加し、馬術に自信のある高房は荒技・秘技を繰り出したのでございます。

そのため傷口が破れ出血しつづけたのですが、馬を下りず、その夜に22歳の生涯を閉じたのでございます。

それを国許で聞いた父・政家は一ヶ月後に病に倒れこれまた亡くなってしまいました。

高房には嫡子が無かったので、龍造寺本家はこれで廃絶することとなったのでございます。

なお、この跡、佐賀では高房の幽霊が白装束で白馬に乗って表れ、夜中の城下を掛け巡るという噂で人々を恐怖させたそうであります。

化け猫といい、白馬にまたがる白装束といい、佐賀は幽霊、化けもののお話が好きでございますね。

そうして1513年に、鍋島直茂の子、勝茂は幕府から35万7千石の知行を安堵され、佐賀藩初代藩主となったのであります。

つまり鍋島家の佐賀藩が成立したのでございます。父の鍋島直茂は藩祖としてあがめられております。慶誾様は1600年にお亡くなりになっておられます。なお、化け猫騒動の元となりました佐賀藩二代目の光茂(1632年~1700年)は、初代勝茂(1580年~1657年)の4男直忠(1613年~1655年)の子、つまり初代勝茂の孫でございます。

初代勝茂は最初の妻が亡くなってから、私の養女としていました岡部長盛の娘を継室として迎え、二人の間に生まれたのが4男の直忠でございました。

4男ではありますが、私の関係から直忠が嫡子となりました。

しかし、その直忠が父勝茂に先立って亡くなったため、勝茂は孫の光茂を養子として、藩主のあとを継がせたのでございます。

光茂は囲碁の相手に待ったをしろ、しないで切り殺すとは、やはり戦争を知らない子供たちであったのでございましょう。戦争といいましても、関が原の戦いことでございます。はい。

今日は話が女城主から化け猫などへ移っていってしまいましたが、私は別に女性の方が化け猫のようになるとか、怖いとは思っておりませんことを申し添えて、今日はこの辺でお開きとさせていただきます。

あっ、そうそう、もし佐賀に行かれ向こうの方とお話をしていて、「古い話のことですが」ということを言いたいときには「剛忠さんの時代は」という言葉をお使いください。剛忠というのは龍造寺家を大きくした家兼、つまり隆信の曽祖父のことなのであります。えっ、私の存在が「剛忠さんの時代」そのものですって。ひどいですなあ。

参考図書:シリーズ藩物語 佐賀藩 川副義敦 現代書館

つづく

丹羽慎吾

 

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