シンゴ歴史めぐり1 家康の正妻と長男の巻

徳川家康の正妻と長男をご存知でしょうか?

正妻は築山御前(1543年?~1579年)です。三河では評判悪いです。
家康の長男はこの築山御前との間に出来た松平信康(1559年~1579年)なのです。

没年を見てわかるように母親と同じ年に亡くなっています。というか20歳で切腹させられました。また築山御前も自然死ではありません。なお、築山御前は信康の他に亀姫(1560年~1625年)を産んでいます。

家康はご存知のように織田と今川の二大勢力に囲まれた三河岡崎で1543年に生まれました。そして母於大(1528年~1602年)は離縁され他家に嫁ぎ、父広忠(1526年~1549年)は部下に殺され、家康は今川義元(1519年~1560年)の住む駿河に人質として送られて、そこで子供の頃を過ごしているのです。その人質時代の1557年に家康(幼名:竹千代)は義元から元の名をもらい元康と名乗り、今川義元の妹の娘の瀬名(鶴姫のちの築山御前)を娶りました。

1559年に信康(幼名:竹千代)が生まれました。1560年に義元が桶狭間で織田信長(1534年~1582年)に討たれると家康は岡崎に戻りました。1562年に家康は信長の居城である清洲城に出向き同盟(清洲同盟)を結び、今川の敵となりました。そのため瀬名姫の両親は今川義元の後をついだ氏(うじ)真(ざね)(1538年~1615年)から咎められ自害してしまいました。瀬名姫は岡崎城でなく城外の人工の丘の上の家に住まわされていたので築山御前と呼ばれました。また、城に入れなかったのは当時家康が引き取っていた実母の於大の方の指示とも言われています。

1567年に家康の長男の信康は織田信長の長女徳姫(1559年~1636年)と結婚しました。信康の信は信長からもらったものです。家康はこの年に築山御前を岡崎に残して浜松城に移りました。

1570年になって築山御前はやっと岡崎城に入ることができました。1575年には長篠の戦いがあり信康は初陣を飾っています。1577年に信康は武田軍との遠江・横須賀の戦いで殿(しんがり)を見事に勤め、武田軍に大井川を渡らせなかったと言われています。

1576年、77年に徳姫は女の子を続けて産みましたが信康の跡取りの男の子が生まれないので、築山御前は武田家の元家臣で徳川家の家来になっていた武士の娘を信康の側室にあてがいました。

1579年に徳姫は父である織田信長に義母である築山御前が武田家と内通していること、自分のことを信康に讒言したとか、築山御前が中国人医師減敬(げんきょう)と密通しているとかの12か条についての訴状を書きました。そして信長からの詰問に家康の代理として家老の酒井忠次(1527年~1596年)と大久保忠世(1532年~1594年)が安土城に赴きました。

信長はその訴状の中身を酒井忠次に質したのですが忠次は否定をしませんでした。その結果信長は家康に信康の切腹を命じたのです。

信康切腹には徳川家中でも反対する人がいました。信康の守役の平岩親吉(1542年~1612年、後の犬山城主)です。自分が腹を切るのでその首を信長に差し出してくれと家康に頼みました。

家康も悩みました。優秀な長男なのです。しかし、すでに家康代理の酒井忠次が回答している以上いまさらノーと言えません。

信康は二俣城(静岡県)に幽閉されました。8月26日に築山御前は岡崎から二俣城に移送される途上で浜名湖の東にある佐鳴湖の畔で殺害されました。そして信康は20日後の9月15日に切腹させられました。見事な十文字の切腹であったそうです。介錯人は鬼半蔵と言われ伊賀甲賀衆を統率していた服部半蔵正成(1542年~1597年)でした。彼でも涙が出て、刀を振り下ろすことができなくて代わりの者が介錯したと言われます。

この事件の三年後の1582年(天正10年)に本能寺の変が起きています。この事件はいろいろ取り沙汰されています。それで各人から正直なコメントをもらいました。

(築山御前)

だって、私は今川義元の姪なのよ。京風の公家の文化の中で育ったのよ。室町幕府の重鎮、今川貞世(了俊、1326年~1420年?)の血を引いているのよ。義元おじさんの命令で、断れなくて、三河から来た人質の家康の嫁に仕方なくなってあげたのよ。私の方が家康よりも年上なのよ。家康に寝屋のことをいろいろ教えてあげたのは私なのよ。

それなのに私を岡崎みたいに何にもない田舎に置きっぱなしにして、自分は浜松に行っちゃってさ。まだ武田と戦う必要があるとか、領土が広がったからその取締に忙しいとか言っちゃってさ。ほっとかないでよ。はっきり言えばよかったじゃない。もう、私なんか必要がなかったって。そして若い娘が良いって言えばよかったのよ。

知ってたわよ、浜松で何をしてたか。それに私の侍女のお万にも子供産ませてさ、くやしいったらありゃしない。家康は受けた恩を仇で返したのよ。あのころも人質のくせにいい暮らしをさせてもらってたじゃない。桶狭間で義元おじさんが討たれたら、急に尾張に寝返ったじゃないの。何が尾張よ、単なる商人じゃないの。出が違うわよ。合わないわよ。私たちの生活と。

それに嫁なんか、あのウツケの娘じゃないの。それに私の叔父さんを殺した人よ。それを今川の血を引く由緒正しい信康の嫁にしたりなんかして。家康の気持ちがわからないわ。

そうよ、家康なんか、私の気持ちを全然わかってくれていないのよ。なによ、徳姫って、ダサい田舎町のくせに、ツンとすましていてさ。それに、女の子ばっかり産んで。女腹じゃないの。私たちには男の子が早く必要だったのよ。そうじゃあなかったら、だれが信康の後を継ぐのよ。

えっ、私が中国人医師と浮気してたって、武田勝頼に家康、信長をやっつけよう、その暁には、イケメンの男を紹介しろって手紙を書いたって。そんなの、嘘ですよ。そんなことができますか。

女のヒステリーじゃないかって。そりゃあ、ちょっとは更年期の症状が出てたかもしれないわ。でも、あんた、女の気持ちがわかってないわねぇー。

 

(松平信康)

僕、何も知らないんだよ。忠次がいけないんだよ。昔から僕をいじめたんだよ。だって、僕、家康の息子じゃないですか。それを酒井家は昔から徳川家と同等の格式があるとかどうのこうのとか、一国の将来を預かる若殿はこうあるべきだって、この僕に指示してくるんだよ。うざいよ。全く。

そうじゃあないですか。それに忠次は僕の侍女に惚れて、徳姫に頼んで自分の奉公人にしたんだよ。あのスケベじじい。そんなタワケたことありますか、主人の奉公人を自分のものにする部下っていないじゃないですか。母さんがいけないんだよ。いくら父さんが相手にしてくれないからって、いくら岡崎の田舎に来たからって、我慢しないといけないじゃないですか。それをよりによって武田の元家臣の娘を僕に紹介してさ、僕、裏の事情を知らなかったんだよ。

母さんは武田に手紙書いたり、中国の医者とねんごろになったりして。そりゃ、殺されたって仕方がないですよ。そうじゃあないですか。それに徳姫がいけないんだよ。岐阜の義父に僕に内緒で手紙書くんだもの。いくら僕が相手にしなかったっていってもそれはまずいじゃないですか。

僕も頑張って岡崎の城を守っていたんだよ。戦いだって負けなかったよ。それに、父さんがいけないんだよ。信長に僕を殺せって言われても、僕を救う方法はいくらでもあったと思いますよ。僕が逃げたことにして、部下の二三人の腹を切らせればよかったんだよ。そうじゃないですか。

 

(酒井忠次)

徳川家と酒井家は、もともとは同等の家柄なのでございます。それに家康は私よりも14歳年下でございます。私の妻は家康の父の広忠の妹なのです。つまり私は家康の叔父になるのでございます。

信康はそんな序列を理解してくれなかったのございますよ。何度言っても聞かないのでございます。でも、家康はかなり信康を可愛がっていたようでございます。あれはいつだったでしょうか、家康に私の息子の領地が少ないから何とかしてくれと頼んだ時に、家康から『お前でも息子が可愛いんじゃのー』と言われ、さすがの私もこたえましたよ。

また、家康と一緒に能や歌舞伎の原型となる若舞「満仲を見ていまして、源満仲が自分の息子である美女丸の殺害を家臣藤原仲光に命じるのですが、仲光は主君である満仲の心境を察して、自分の子の幸寿丸の首を斬り、その首を美女丸の身代わりにして満仲に差し出す場面になりますと、家康は涙を流し、私と大久保忠世をかえり見て、「おおっ、二人ともあれを見てみぃ。」と言い、我々をじいっと見つめたのでございます。返す言葉がございませんでした。

信長様に詰問された時に、徳姫様の手紙のようなことはございませんと申し開きをすればよかったかなと少し悔いたりしました。でも、これでよかったのでございますよ。徳川にはこれから優秀な跡取りが出ませんから徳川の世は長く持つのではございませんか。

 

(織田信長)

余は築山御前と信康の母子を殺せと家康に言った覚えはないのである。築山御前のことは何も言わず、信康のことは家康に任せると伝えただけである。なのになぜ家康は二人共殺害してしまったのであるか。これは徳川家のお家事情ではないのか。余は自分の子供たちが不甲斐なく、信康を生かしておくと、織田家が危なくなることを懸念したのは確かではある。それに娘にねだられると父親としては弱いのである。可愛い徳姫であるからのー。

(徳姫)

だって、私って、尾張からきたじゃない、侍女は一緒に来たけど、お父上の部下が側にいないじゃない。

それで酒井忠次にいろいろの信康の話を通しとけば一件落着すると思ったのよ。だって、信康ってさ、普段はおとなしいのに、何かの拍子でカアッとなってキレるんだもの。侍女を虐待したり、盆踊りの人の輪に弓を入れたり、大変なのよ。

それに何よ、あのババア、今川、今川って、自分は今川焼きみたいな顔してさ。あの人、尾張や三河を馬鹿にしてんのよ。武田と組んでお父上と義父をやっつけるなんて、タワケだわよ。ドタワケよ。時代錯誤も甚だしいわ。

自分がどんな立場にいるのかわかっていないのよ。馬鹿ね、本当に。だから、お父上にご報告するしかないと思ったのよ。でも、まさか義父が二人を殺すとまでは思ってもいなかったのよ。

 

(徳川家康)

アイツには切腹をさせたくなかったのじゃ。親として当然であろう。跡取りなのじゃよ。

それに戦で一番むつかしい殿(しんがり)をあの年で立派に努めたヤツじゃった。もし生きておれば、関ヶ原の戦い、大阪城の戦いも、もっと早く決着をつけたに違いないのじゃ。

そりゃあ、悩んだよ。オジキの酒井忠次が信長様の命令を持って来たときは、嘘じゃ、何を言っておるんじゃって思ったよ。三日間寝ないで悩んだよ。

しかし、詮無いことじゃ。力関係が違うのじゃ、お家が大事なのじゃ。ワシがいかんかったのじゃよ。信康がワシの最初の子だったもんで、無事に育てば良いと甘やかして育てた結果なんじゃよ。

それに、アイツが大きくなって岡崎城を任せたが、三河衆、駿河衆、尾張衆の気質の違った家来やオナゴ衆の中で切り盛りしていくにはアイツでは若すぎて、難しかったのよ。

ワシのように子供の頃に親が殺され、人質に出されるという経験をしとらんかったんじゃよ。でも、最期の時は、何かの拍子で部下が信康を逃がしてくれるのではないかと期待しておったんじゃ。

信康を岡崎から渥美湾の大浜に、浜名湖畔の堀江に移し、そして内陸の二俣城に送ったではないか。築山を殺してから20日間も時間稼ぎをしたんじゃよ。

しかし、誰もそのようにはしてくれなかったんじゃ。そういえば、服部半蔵の代わりに信康を介錯した天方道綱はワシが嘆き悲しむのを見て出家したらしいな。

築山の場合にしてもそうじゃ、女なれば、部下がなんとか取り計らってくれると思うたが、ダメじゃった。介錯人も三河衆でなく、遠州の者を選んだのに、あっさりと処分しましたと報告に来よってわ。そりゃあ、いろいろあったが、ワシにとっては正妻じゃったのだよ。その後、ワシは正妻はとっておらんのじゃよ。みんな側室じゃ。それも築山のように身分の高いものではなく、そこいらの女よ。今川をあっさり寝返ったっていわれるが、氏真をワシはあとからようけ面倒を見てやったはずじゃ。

 

(信康生存説)

また、義経伝説みたいに、信康の葬られた遺体は替え玉で、本人は同情した家臣達に助けられ、浜松山中の村に逃れたという生存説があるのです。

寛永10年(1633年)頃、西国大名に仕える飛脚が江戸に向かう道中、掛川の辺りで、年齢70代半ば頃と思われる非常に貫禄のある老人が、どこからともなく現れて、飛脚に「今は誰の時世かな?」と聞いたとのことです。飛脚が「3代将軍家光公(1623年~1651年)の時世だよ」と答えると、その老人は頷き、次に「土井甚三郎は元気でいるか?」と聞いてきました。

しかし、飛脚はそれが誰のことを言っているのか分からず、どうも頭のおかしい老人らしいと考え、無視して行ってしまったのです。そして江戸にその話が伝わると、土井甚三郎というのは現在の老中・土井利勝(1573年~1644年、家康の隠し子の噂あり)の幼名だということが判明しました。

そして「土井利勝をそんな名で呼ぶ人物は只者ではない、徳川家の何らかの関係者ではないのか?」と話題になりました。一時期それは、岡崎三奉行の一人で後に改易させられた天野康景(1537年~1613年)ではないのかとも噂されましたが、仮に天野だとすると生きていれば100歳前後になるため、どうもそうでは有りそうにないのです。

そこで他に該当するような人物を考えた末、もしかするとその老人は年をとった信康ではないのかという推定が出て来たのです。確かに当時信康が生きていれば70代半ば頃になるし、事実その老人の現れた周辺の村の村長の家には、とても常人が持つものとは思われない立派な鎧兜や鏡が安置され、村の住民は皆が藤原姓を名乗っていたのです。藤原姓はかつて家康も名乗ったこともある名字のため、もしかすると信康は追及を逃れ、浜松の村に隠れ住んで余生を送ったのではないかというのです。

(余談)

岡崎市の私の家の近くに八柱神社があります。私の朝の散歩コースの一つです。

八柱神社や八王子神社は日本中に存在する神社です。もともと仏教の守護神である牛頭天王の子供たちである八王子を祀る神社でした。東京の八王子も同じ由来です。明治の神仏分離で仏教の牛頭天王と習合していたスサノオの持ち物から生まれた5男3女神を祀る神社となっています。5男神は次のとおり

  • アメノオシホミミ   :天孫降臨したニニギのお父さんです。
  • アメノホヒ          :アメノオシホミミの弟、地上の国出雲を平定するため派遣されたが、オオクニヌシに心酔し、配下になり三年間高天原に戻らなかった。
  • アマツヒコネ       :滋賀県の彦根の元となった神様です。
  • アマツイクネ       :古代氏族の祖神、日・風・海の神、三重の多度大社で祀られている。
  • クマノクスビ        :出雲の熊野神社、紀伊の熊野三山の神様とも言われます。

3女神は航海の神様である宗像三女神(タギリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメ)で宗像神社や厳島神社でも祀られています。

その岡崎の八柱神社には、上記八柱の神様の他に『後世奉仕する祭神』としてアマテラス、オオクニヌシ、それに松平信康公、『外陣御録社の祭神』としてトヨウケオオカミ、『外陣神明宮の祭神』として築山御前が祀られているのです。そして築山御前の首塚もあるのです。

信康及び築山御前は静岡県の佐鳴湖、二俣城で殺害/切腹させられ、遺体はその地のお寺に葬られましたが、首級は信長の検分のため岡崎に送られました。それで岡崎に二人の首塚があるのです。築山御前の首級は最初に祐傳寺に葬られ、その後、八柱神社に祀られました。そして、二人に関係する墓地は岡崎ばかりでなく静岡、東京、その他の地域にあるのです。

参考図書:『覇王の家』(上・下) 司馬遼太郎 (新潮文庫) + ウィキペディア

 

丹羽慎吾

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