館長のつぶやき31~「佐藤春夫の少年時代」(31)

春夫の新宮中学生活あれこれ(続)
この(明治38年)10月30日の坊主山(ぼうずやま・現在の王子ヶ浜小辺)に集合した授業ボイコットは、後述する明治42年10月の、新宮町を巻き込んで展開された大々的な新宮中学の同盟休校と比べれば、単に1クラスの小さな些細な出来事に過ぎないかもしれません。しかしながら、理不尽や不合理やを感じ取ったとき、正面切って抗議する姿勢は育まれていったと言えるのかも知れません。

明治43年の新宮中学校全景(右側が校舎、左側が寄宿舎)

首謀者とされる汐崎は下里の出身でしたので、新宮の町に下宿していたか、寄宿舎に入寮していたかでしょうが、新宮中学の寄宿舎「神風寮」は、明治38年4月開設され、それはちょうど5回生が入学したときで、春夫や汐崎らは2年次でした。

寄宿舎は運動場の北半分を占領、南北2棟で、校舎1棟分相当、県下でも最高、最新を誇ると言われたようで、たちまち70名近くが入所しました。当時、270余名の生徒数で、徒歩通学生120名ほど(45%)、下宿か寮生は150名(55%)ほどでした。集団生活が始まれば、伝染病など病気への配慮も当然要求されてきます。明治39年の湯浅地方でのペスト流行は、幸い熊野の地まで及んでくることありませんでしたが、41年の脚気流行は舎生の半数が罹患しました。末梢神経から中枢神経が冒され足元がおぼつかなくなり、重症化すると心不全を起こすこともあったようです。

日清戦争や日露戦争でも兵士の脚気問題に悩まされ、戦病死の多くがこれであったと言われています。陸軍と海軍とで見解を異にし、その対処が定まらず、早くから海軍は麦飯などで対応したとされますが、原因は不明なままで、細菌説なども横行しました。日露戦争にも従軍し後に陸軍軍医総監も務めた森鷗外は、むしろ細菌説に近かったようです。そんな状況下で、新宮中学寄宿舎では早くから麦飯などで対応していて、先見の明があったといえますが、脚気流行の気配は収まらず、翌年の夏季休暇の延長にまで及び、後述する春夫無期停学処分に影響してくるのです。

 

 

会誌5号表紙と同号掲載の春夫文「小品数篇」

春夫が「会誌」5号(明治42年3月)に書いている「小品数篇」の全文を、次に引用してみます。
「少なくとも、其の当時の自分の頭は、間違ってゐた。/ 自分は森林は写生せられる為めに、また物思ひに耽る自分を逍遥せしめる為めに、造られてゐると思ってゐた。/ 今、森林の奥から聞える伐木の音は、かう信じて居た自分には、他の人よりより大きなひびきとして聞える。○ 文字の如きものヽ刻まれた石片が畑中から探り出された。博士らは集うて読まうと試みたが遂に読めなかったー偉人の勲功を表はしたものであるか、それとも、亡国の恨をのこしたものであったかー石片は前世界の遺物であるから・・・・。○ ほこりを浴びて古ランプが物置の隅に置かれたゐる。/ 電気燈が出来てから必要がないと云ふのだ。石油などは無論入ってゐない。唯、二寸ばかりの短かい先端が黒くなった心(芯、ママ)があるのみだ。○ 僕の時計は壊れて仕舞った。もう直らぬさうだ。/ いくら振って見ても、新しかった当時のカチ、カチは無論、古くなってからの濁ったセコンド音をたに(だカ、ママ)今(は)聞くことが出来ない。針は昨日も今日も五時二十六分を指し示してゐる、恐らく明日も明後日も十年後も百年後も・・・・。/ 僕はかう思って時計の針を動かしてやった。/ 針は動いた。しかも音のしないのを、と(ど)うしやう。○ 学校の図書室から蓄音器がひびく。/ 生徒が皆それをとり囲んで聞いて居る。否、見て居るのだ。後の方の者は背のびしてまで蓄音器のひびきを見て居た。/ 「馬鹿だなあ、蓄音器を見る奴があるものか」と云ひながら、私もやっぱり何時の間にか蓄音器を見てゐる馬鹿の一人となって居た。」

中学生活の一端をほんのスケッチ風に認(したた)めたものですが、校友会誌という、どちらかというと当時の国家観や国勢などの意気盛んな文章が多く目立つ中で、さらに時代の道徳観のようなものが反映されがちななかで、淡々とした筆致はむしろ新鮮味があり、余裕さえ感じ取れます。春夫の表現世界の拡がりが、十分にうかがえるものですが、ここに至りつくまでには、果敢に挑んでいる短歌の革新から、散文世界への関心の深まり、さらに何より、落第と言う屈辱的な体験や初恋の面影などを宿しながら、至りついたものだったということを確認しておく必要があります。

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