館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(29)

新宮中学生の投書熱
春夫より8歳年長で明治17年生まれの和貝彦太郎(号は夕潮)は、明治40年3月に新宮中学を卒業した第2回生ですが(春夫は4回生として入学します)、中学生の投書熱について次のように述べています。和貝は春夫等の世代を「文学」への傾向に導く、その先導役を果たした人でした。自身も中学時代に投書熱を煽った一人であったと言えます。
「当時東京では青年子女(中学・女学生)を対象とする多くの文芸雑誌が発刊され、各地からの投書学生が自然グループを形成していたが、その主なるものは「秀才文壇」「中学文壇」「文章世界」などで、私たち熊野グループの面々もこの時流にのり、割合に優勢を持続していた。新宮中学は学科勉強主義の学校で、成績のせり合いが激しかった関係上、いつの間にか脱落者相つぎ、ついに私一人が踏み止まって投稿を続けるうち、程度の高い「文庫」「新声」に舞台をかえるに至った。」(「熊野文壇の回顧」・「熊野誌」7号)

ここに引用されている「中学文壇」の明治37年8月発行の第147号によれば、和貝自身が盛んに投稿しているのが分かります。「軍国文壇」欄では、「北韓の夕月」と題して、おそらく日露の戦役を報じる新聞などを手掛かりにしたのでしょう、血に染まって戦いに倒れた愛馬、白馬の骸の前に佇む若き兵士への思いを、感嘆符や読点を多用して記述しています。夕日から夕月へ、「戦果てし北韓の野」を描いています。「和歌山県立新宮中学校 和貝蘆風」とあって、「蘆風」は和貝の俳号です。同じ号で「新体詩」、「和歌」(佐々木信綱選)「俳句」(伊藤松宇選)にも採られています。

中学文壇表紙(明治37年8月の147号)

さらに目につくのは、先輩の1回生保田宗次郎の活動。「中学文壇」の同じ号に、「昏(く)れの吟声 紀伊新宮中学 保田宗次郎」が採られています。短いので全文引用してみます。

「ふりさけ見れば、白砂疎松の王子が浜は、夜の自然につヽまれて、東仙精舎の七堂伽藍、地上にうすく影を印するの時、「孤軍奮闘をついて・・・・(以下ママ)。・・・・絶壁の間。/ 吾が剣已に折れ吾馬斃(たお)る。・・・・古郷の山。」絶=漏=絶=熊野み浜の風に動き、松より畑、畑より田、田より川、川より橋、橋より庭を徘徊ふ吾耳に伝はりぬ、幽静なり、閑遠なり、自然の定め、こヽに妙を含む!?」。評として「吟詩断続のところ、趣向なり、読者注意すべき点か」とあります。保田もまた、和歌や俳句でも採られています。

保田はまた、談話、弁論でも秀でていたようで、生徒や職員間で校友会設立の機運が高まり、有志らで学校当局に幾度か陳情して、校友会が誕生した時、生徒代表として挨拶しているのは4年生の保田です。それは、明治37年7月9日で、会長は校長でしたので学校の管理下にあり、校長の「発会の辞」などもありました。200余名の参加者の一人が、1年生の春夫でした。春夫はその日の日記に「今日校友会式で保田宗次郎の演説があったがあまり感心もせなんだ」と一言記すのみです。校長の「発会の辞」などには、一切触れていません。

第1回生の保田は、渡米組のひとりで、新宮中学校友会の「会誌」5号(明治42年3月)に「米国通信」を書いていて、明治39年8月に新宮を立って神戸からアメリカへ渡航する様子が日を追って記述されていて、9月11日にロスアンゼルスに到着しています。また同会誌には、詳細は後述しますが、4年生春夫の「小品数篇」も載っています。
春夫にとっておそらく活字になった最初の文章に「予の好きな友人」があります。明治39年4月「日本少年」に投稿されたもので、臨時増刊として刊行された「少年千人文集」に収録されたものです。「予の将来の目的」など、10の項目の一つに「予の好きな友人」の項目があります。昭和11年2月の「綴方生活」56号(昭和4年から12年にかけて刊行)に「三十年前の少年文」として再録されたのは、著名作家の初期の文章と言うことで、5等当選70人のうちの1編としてでした。「紀伊新宮町熊野病院内 佐藤春夫(14)」とあります。また、再録文に「我が家の庭園(選外佳作) 和歌山県東牟婁郡新宮町新宮男子高等小学校生徒 永田衡吉(13)」が続いています。永田は後に戯曲家として名を成すのです。

「予の好きな友人、僕は躊躇なく云ふ鳥井輝夫君、鳥井輝夫君と僕とは同級で体の丈夫な目の大きいくりくり肥えた見るから元気のよい少年ですそしてテニスのチャンピオン野球のキヤツチヤ―学問の可なり出来るして悪いことはどしどし云つてくれる僕等にはこよない好友人!/僕は鳥井君が大好きだ登校する時でも十分間の休息時間も学校を退る時でも復習する時も遊ぶ時も何時でも僕と共にして兄弟も及ばぬ程仲がよくつて交り始めて二年にもなるが未だ只の一度も口論さへしたことはないそれ故同級間ではおし鳥と云ふ/僕は人が何と云はうが必ず長く交つて互に助け合はうと約束して居るのだ。/僕は鳥井君と遊ぶことは一番楽しい去年の夏休みにも共に瀞八丁へ行つて来たのだで今年の試験休みにも又行かうと今から楽しんでいる/しかし何故こんなに親しいかと云ふ事は自身にも解し兼ねる/唯意気相投ずと云ふ友人だ!益友だ‼」がその全文で、「評曰、みんな羨んで居りますよ。」と寸言が付いています。
中学2年時のこの作文からはまだ春夫のその後の才覚というものはあまり感じ取れません。そこには何か、ホモセクシュナルな雰囲気も伝わってきますが、またこの頃は後述するように、初恋の人との出会いがあった後の頃でもあります。

ホモセクシュナルということで言えば、春夫が「南方熊楠―近代神仙譚」(河出文庫)の解説「今なお色あせない名著」で、唐澤太輔が「本書が、今なお色あせず、むしろヴィヴイツドに我々に迫ってくるのは、佐藤春夫の抜群の言語センスと鋭い洞察力によるものであろう。また、その素晴らしい構成力にも感嘆させられる。例えば、羽山家との不思議な関係(縁)についてである。現在でこそ、熊楠と羽山兄弟(繁太郎・蕃次郎)との深い関係(同性愛的関係)の研究がされつつあるが、そのような事柄がまだ曖昧だったであろう頃に、既に佐藤は、熊楠と彼らとのつながりにしっかりと着目しているのである」と指摘していることが思い出されます。春夫はただ本書の「渡米前後」の章で、熊楠の岩田準一宛書簡を引用して述べているだけなのですが、岩田が同性愛研究等で著名であったことからすれば、羽山兄弟についての言及そのものが、そこに言外の意味が隠されているのかも知れないという解釈です。

「鳥井輝夫」は「岡嶋輝夫」の仮名です。岡嶋の「嶋」が「山」に「鳥」でしたから、「鳥井」の姓が思いついたのではとする考えも面白い。それは、岡嶋輝夫の孫娘西本元子が、再録された「予の好きな友人」を読んで推測しています(「佐藤春夫記念館だより」19号・2014年9月)。西本によれば、貧家に育った祖父は小学校3、4年頃から酒屋に丁稚奉公しながら通学、養父亡き後養母と文房具店をはじめようやく中学校へ進学できるようになったということです。春夫より2歳くらい年上であったと言います。毎日のように春夫宅を訪れました。教科や教師の好き嫌いにムラのあった春夫を心配した母親は、「多分、くそ真面目で「優等生だった」祖父に、「一緒に勉強してやって下さい」と云って、行くと歓迎して下さった、それも嬉しかったようです」と、西本は記しています。

岡嶋本人が「佐藤春夫君の想出」を書いていて(講談社版「佐藤春夫全集」月報5・昭和42年4月)、次のような記述があります。玉置口で校長をしていたのは、実父でしょう。

「その瀞行というのは、中学二年の夏休みに私の父が瀞峡の下手一キロの、玉置口村の小学校にいた関係で、遊びに行こうと誘ったのであった。新宮から約十里の山路を、暑い日中を弁当腰に、歩いていったものだった。/ 翌る日一日は、小船を浮べた瀞八丁は、両岸屹立した巌石の間を澄み切った水が深淵をなし、山の緑と岩の色とを調和して、水に写った美しい景に、少年佐藤もだまって見入っていた。一日船遊びにつかれて帰ってから私の父に「瀞峡の事はよく聞いていたが、あんな処とは思わなかった」と盛に感想を述べていた。」

「彼は幼少の時から文学書をよく読んだ。家の蔵書を読みつくし、新刊書を手当り次第買い込んだ。二年の頃にはフランス文学書も読んでいた。/ 書斎は母屋から少し離れた家で、押入は全部書棚にしていた。それを目あてに私共は押しかけていって、好きな本を引出して、寝ころんで読みふけったものだが、書評や、文学論では歯が立たなかった。」

岡嶋らとの「瀞行」は、春夫にとっても忘れられない体験であったとみえて、春夫は「旅の思ひ出」(昭和31年7月8月「東京新聞」連載)で、「草鞋脚絆の二日旅」として、(上)(下)に亘って書いています。

中学生らの投書雑誌が、実用性や日露戦後の時代への即応を求められ、むしろ「文学」臭を削ぐものとして作用したことも指摘しておかねばなりません。投書熱が盛んになることは、逆に、当時の文学界を席巻しつつあった「自然主義文学」などを「危険なもの」「排除すべきもの」と認識させていったのです。春夫の当代の「文学」への興味、関心はしだいに育まれつつあつたものの、「表現」として噴出するまでには、もうしばらく時を待たねばならない気がします。そんななかでの「明星」への投稿が和貝彦太郎によってなされ(明治41年7月号)、「白烏吟社(はくうぎんしゃ)」での春夫らの和歌が石川啄木の選に掬(すく)い上げられたのでした。

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