館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(27)

春夫入学の頃の新宮中学校―「熊野大学」といわれた
ようやく、春夫の新宮中学時代の記述に辿り着いた感です。新宮中学は開校してまだ間もない頃です。
和歌山県立新宮中学校(現新宮高校)が第2中学校分校(田辺)として開校したのは、1901(明治34)年4月27日、2日後授業が開始されていますが、この日はのちの昭和天皇の誕生の日にあたり、国民的祝いのなかで出発を遂げたのです。司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの「古座街道」によれば、古座川筋のひとびとにとって、新宮中学校はまさに「熊野大学」とよばれるほどの、天上の場所のように感じられたと言うことです。

新宮中学校が開校するまでには、さまざまな政治的動向の具にされた気配があります。県会議員たちに猛運動を展開し、分校開設の立て役者となったのは津田長四郎らで、上県して陳情の効果を上げた一行が、明治33年12月新宮に帰ってきたときは、「新宮では百台近くの腕車を動員して、当時の汽船発着場三輪崎町へ長蛇の陣を作つて出迎へるなど、まるで凱旋将軍を迎へる騒ぎだつた」(朝日新聞・和歌山版昭和15・4・17付)と言います。「腕車」とは人力車のこと、です。

これより先、中学校誘致のために新宮町長らは1万円を寄付しようとする動きなどをみせています。当時の1万円とは、明治34年度新宮町の歳出総予算額は2万円強、明治32年度三輪崎町の歳出額は3,300円弱であることを考えれば、中学校設立のために、新宮町歳費の約半分、三輪崎町歳出の3倍の額を寄付しようとしていたわけで、地元の熱意がいかに高いものであったかが分かります。とはいうものの、結果的には、同じ時期に第3中学(粉河)が独立校として出発したのに比べて、新宮は「分校」としての出発でした。

こうして開校された新宮中学でしたが(正確には既述のように第2中学分校。第2が田辺に改称され、田辺中学分校)、定員100名の第1回の入学生(明治34年4月26日入学式、翌27日は仮開校式、いずれも完成したばかりの第3尋常小学校で挙行)は、いろいろな道を歩んできたものが集まっていて、尋常小学校を終えて入学したものはごく少数で、呉服屋の番頭だったもの、職人であったもの、小学校の凖教員であったものなど多彩を極め、年齢の差が大きかったうえに、服装もまちまちでした。髭を生やした新入生もいました。入学当初生徒たちは、教師が点呼すると、「ヘイ」と返事することが丁重であると心得ていたとみえ、名を呼ばれれば「ヘイ」と答える。全国各地から赴任している教師たち(と言っても、校長と職員4名という体制)にとって、よほど聞き苦しかったようで、以後「ヘイ」と言うべからず「ハイ」と答えよ、という御触れが出たりしています。

熊野の火祭りとして名高い「お灯祭り」の舞台、神倉山の麓の畑に建てられた校舎は、さながら牧場の牧舎のよう、運動場では畑の畝がそのまま残っていたりしました。「空気清浄の処、春は学窓近く、胡蝶の菜花を縫うて渡るを見得べく、秋は万朶の紅葉を校内より眺め得べき絶好の地たり」「師弟間の感懐互に相融和し、師の吾等を見る赤子の如ければ、吾等も亦、慈親に対するの情を以て師に就き、その間、何等の凌轢(りょうれき・しのぎきしること)を知らず、いさヽかの不和を聞かず、真に当代稀に見る平和黄金の学園なり」とは、「会誌」1号(明治38年1月)にみる「吾が新宮中学校」の一節です。

教師と生徒が一体となって、「ベースボール」や「ローンテニス」(まだ、「野球」や「庭球」の用語は定着していない)に打ち興じた思い出は、この頃学んだ多くのものの脳裡に刻まれていたようで、それは赴任後やがて校長を務める木村尚の影響も大きく、木村は用具を取り寄せ、そのルールも教えたようです。

佐藤春夫も昭和39年5月6日朝日放送の「一週間自叙伝」録音中、新宮中学時代の「野球」に触れたところで急に胸が苦しくなって息絶えたのでした。田園的牧歌的な雰囲気は、ベースボールには不適であったものの、自由な校風は培われていきました。しかしそれは一面では、施設制度等のまだ不備であることからくる、あるおおらかさであったとも言えます。施設制度が充実してくるにつれて、新宮中学校も明治の国家、中央の教育制度の仕組みの中に確実に組み込まれていかざるを得ませんでした。一言で言えば、日清戦争から日露戦後への国家主義体制と言うべきもので、「ベースボール」や「ローンテニス」の自由な雰囲気を含んだものから、銃剣撃や「兎狩り」などの実習等に様変わりしていったのです。

開校時の神倉山磐盾の下の新宮中学校舎(創立10周年記念絵はがきより)

広角(ひろつの)から遠望すると、広い水田にポツンと立っていて、赴任してきた教師たちは「牧場」かと思ったと言う。

「兎狩り」という変わった科目も、全国的な流れがあったようで、新宮中学でも明治34年11月に三重県の神ノ内(こうのうち)で、地元の猟師に依頼して実施しようとしましたが、直前に狩猟法に違反することが判明して、遠足に切り替えたりしていて、実施されることはありませんでした。

「わたくしはしかし学校の勉強は少しも心がけないで、野球の練習にうき身をやつしていた。/というのは、その父が亡くなったために、義理の叔父にあたるわたくしの父をたよって和歌山の本校から新宮の分校に転校して来た四年上の従兄が、当時鳴らしていた和中チームの選手ではなかったが野球部の一人であったというので、転校後、まだ満足にルールも知らない新宮中学にコーチをしていたので、わたくしも従兄に仕込まれて有望だとおだてられていた。わたくしはまた父が往診用の自転車に乗り習ったり、中学二、三年のころまでわたくしはスポーツ少年であった。」(「私の履歴書」・昭和31年7月/日本経済新聞)と、春夫は述べています。

ところで、新宮中学1回卒業生29名は、第1高等学校医科、第3高等学校工科、東京高等商業、第5高等学校工科など、続々と有名上級学校へ進学して、その優秀さはいまでも土地の語り草になっています。定員100名の入学試験を突破して入学した第1期生が、5年間のうちにわずか29名になっているのは、種々な事情で学業を続けられなくなったり、落第に追い込まれたりしたのでしょうが、卒業までの関門の難しさに驚かされます。明治39年3月、春夫は3年生に留め置かれる事態に立ち至ったので、1回生の動向をつぶさに観察する余裕などはなかったでしょう。1回生は待機組などの関係で、115名が応募、入学試験が行われ、ふるいにかけられたものの、2回生以降は、定員割れが続く状況で、いわゆる一斉に統一的な入学試験は実地されていなかったのではないでしょうか。

4回生として入学した春夫は、明治37年3月、中学入学試験を受験した気配が、「日記」からはうかがえないということはすでに指摘しましたが、間際に入学試験を受験した気配がないのは、全員入学だったからではないでしょうか。
それを窺わせる4回生の西弘二の回想があります(岡島輝夫編「五十年誌」私家版・「新高八十年史」所収)。春夫2年次への進級前の明治38年3月のことと推測されます。西は2年次の編入試験を受験するため、初めてひとりで潮岬から新宮にやって来ています。年少であるため途中親切も受けるものの、新宮では泊所を探すのに困難を強いられています。そんななかでの編入試験は、1年生の学年末試験と同じものであったと言いますから、春夫も一年生末に受験したものでしょう。西は英語の成績が良くなかったけれども、その後面接指導があり、夏までに他の生徒に追いつける自信があるか尋ねられ、頑張るように力づけられて入学を許されたのだと言うことです。

さて、第1回生の動向で他の県内の中学校(和歌山中学、田辺中学・粉河中学・徳義中学)と比べて際立っているのは、「海外渡航せし者6名」を数えていることです。校友会誌には「渡米 英文学研究」と記されています。当時「渡米雑誌」なども刊行されていて、渡米熱が盛んでしたが、必ずしも「英文学研究」などという悠長なものとはいかなかったはずです。

春夫より3級下で太地出身、当時寄宿舎生活を送っていた石垣栄太郎は、明治42年9月中途退学して、先に渡米していた父に導かれてアメリカに渡っています。第1回生等がアメリカからの便りを「会誌」に掲載したりしていますから、栄太郎も目にしていたでしょう。そうして、この退学の時期は、後述するように、まさに5年生の春夫が講演会登壇事件で無期停学を言い渡された時期に照合し、その後中学のストライキによって、寄宿舎生も巻き込まれてゆくのですが、それは栄太郎が退学した後のことで、すでにアメリカの地に足を踏み入れていたのでしょうか。「大逆事件」後のことと言いますが、教会で「天皇とキリストとどちらに深く頭を下げるべきか」と問うた日本人に、日本人牧師は「天皇には軽く、キリストには深く」と答えた際、「そうだ」と同意の大声上げた栄太郎は、牧師ともども在留邦人の迫害を被り、身の危険を感じて逃亡せざるを得なかったと言うことです。やがて片山潜などの社会主義者などとも出会い、抵抗の画家として「鞭打つ」などの出世作を発表して、抵抗の画家としてアメリカ社会で認められてゆくのです。そうして、わずか2年余とはいえ、春夫と栄太郎とは、学年は違え開校間もない新宮中学校で学んでいたのです。

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