館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(23)

・日露戦争に鼓舞される少年
春夫の日記によれば、2月9日夕刻号外が届き、「日露開戦我軍大勝利敵艦二隻を撃沈したよ、万歳大勝利」とあります。大勝利が3度繰り返されています。翌10日は3時に学校から帰ると号外があったので見ると、「又我軍大勝利三隻沈めた」とあって、この号外は朝来たのであろうと言い、夜も11隻沈めたとあります。「万歳大勝利」と続いています。11日は「紀元節」、8時から式典、勅語奉読、校長祝辞、紀元節の歌など歌って、午後は大浜で軍人の運動会を見学、「今日は愉快である」で結んでいます。急に戦時色が田舎の町にもしみ込んできています。17日には「徴兵を送る」の記述もあります。
歴史的な事実を述べれば、2月4日御前会議でロシアとの交渉を打ち切り軍事行動に出ることを決議、国交断絶を通告、8日陸軍先遣部隊が仁川上陸を開始、連合艦隊が旅順港外のロシア軍艦2隻を撃破しています。春夫はその号外を目にしたことになります。ロシアに宣戦布告の詔勅が発せられたのは10日のことです。各種の年表では、この日日露戦争始まると記述されています。春夫の日記によれば、学校で宣戦詔勅奉読式が行われたのは16日、式後遠足に出かけています。26日には全員講堂に集められ、校長から日露戦争の由来、仁川や旅順の開戦の話を聞き、「軍人の忠勇」や「魯(原文ママ)軍の油断」などについて理解できたと記し、「油断大敵」と結んでいます。3月1日にも校長から日露戦争の続きの話を聞き、「日本人は忠勇である」と結んでいます。3月13日、14日と、号外が立て続けにきて、旅順、大連攻撃、「我軍大勝利」「旅順陥落し敵兵退去」などが出ています。しかしながら「旅順陥落」はなかなか実現しなかったのです。この年秋から第2次、第3次と攻撃は続けられ、膨大な犠牲者を出して203高地占領に成功するのは、この年の歳末から年初にかけてのことでした。
春夫の日記に戻れば、7月27日には「大石橋(たいせっきょう)の戦い」での勝利を伝える号外を目にしています。遼東半島での戦いは、24、25日に成されたもので、田舎町への伝わり様もきわめて早い。この日「ロカン」と記すロシアの軍艦が、新宮沖に現れると言うことで「城山」へ登ってみましたが、霧がかかって遠望がかなわなかったと言うことです。

春夫日記の2月13日から16日までの記述。2月14日には「ベースボールをしたこと、目白を獲りにいったこと」など。15日には「遠足の道順」が図示されている。

7月20日までで欠落している「一寸光陰不可軽」と題された日記は、定期的に父の点検を受けていたらしく、7月4日には、あまりに「記すことなし」と続く記述に、「記すことがないと言うことは、唯食べて何もすることがないのと同じ」という意味の叱正(しっせい)を1ページほど述べた後、「造糞器」になるなと諭(さと)しています。食って寝ての生活を「造糞器」と喩(たと)えているのは面白い。この訓戒を「日誌の序文」とするとあって、「父梟睡(きょうすい)」とあります。梟睡は豊太郎の俳号です。
時に日露戦争の「勝利」が号外で伝えられるたびに驚喜するなかで、高等小学校から中学校へ、春夫の学生生活は大きな変化が訪れているかというと、そんな風もなく、友達と遊び、学んでいるのですが、しかし7月3日には、軍艦初瀬の犠牲者「岡崎キシ彦氏の葬儀」があり、中学生や小学生も参列したようです。「戦で死んだ人はわれわれにかはって死んだのである、我も国民も深く謝すべきだ」と感想を記しています。5月15日にロシア海軍が敷設した機雷によって、戦艦「初瀬」と「八島」が爆沈され、初瀬の犠牲者は458名、そのなかに新宮出身者もいたということでしょう。戦争の蔭が田舎の町にもこんな形で忍び寄ってきていたのです。
春夫は後年、「私の履歴書」のなかで、「日露戦争の事」の項を立て、「海陸の勝報を伝える号外の鈴の音は国民を蠱惑(こわく)してみな戦勝に酔っていたが今にして思うと、国力から見て、その二年足らずを精一杯の苦しい戦をつづけていたのであろう。わたくしの町などでは、戦の中ごろから早くも全国的な食糧難の兆が現われていたー他の地方ではあまり気づかなかったことと思うが。/由来、交通不便な半島の先端たる熊野地方は海と山との土地で耕作地に乏しいため、平素も山間では三食とも芋やとうもろこしなどの代用物による村が多いというが、町でも米は讃岐や三河から熊野川口へ運んで来ていたのが、戦争になると、さぬき米や三州米が来なくなってただ外米ばかりになった。石の多くまじったへんな臭のする色の黒い米の飯は、悪衣悪食に慣らされて、うまいまずいなどは子供のいうべきことではないとしつけられていたわたくしの口にも持てあますものであった。/バルチック艦隊が太平洋から津軽海峡をぬけて日本海に入るかもしれないというので、父の家の裏山でわたくしの遊び場たる城山には物見の塔が建てられて監視の青年が日夜沖を見張っていた。」と記しています。年が明けて明治38年旅順が開城されると、新宮町でも1月4日から各種祝賀行事が行われ、各町山車(だし)を繰り出し、作り物をし、各戸国旗を掲げ、通りは万国旗を連ねました。祝賀の提灯(ちょうちん)行列も行われ、春夫の父も興奮してしこたま酒に酔って帰ってきたこともありました。春夫は「国外で行われていた戦争そのものは、せいぜいこの程度のことですんでしまったが、思いがけないその影響がすっかりわたくしの生涯を決定してくれたように思う。」とも記していて、日露戦時下、戦後の教育の在り方も、徐々に自由な雰囲気が奪われつつあったのです。
日露戦争の戦意高揚、国民の戦勝への意識の高まりは、熊野の地まで浸透してきたことは分かりますが、ここでやはり冷静に世の風潮を観察して反戦論を唱えていた、大石誠之助らの言行をも指摘しておかねばなりません。当時は、反戦の意の「非戦」のことばが一般的でした。
明治36年10月、勤めていた萬朝報(よろずちょうほう)社が、販売のための意向で主戦論に転じたのに抗議して退社した幸徳秋水、堺利彦は、新たに非戦を掲げて平民社を起し平民新聞を刊行します。医師の大石誠之助は、「平民新聞」などによって、日露戦役の本質を把握し、戦費調達の国債発行などが、過分に地方に押し付けられて苦慮する姿をエッセイ等で描出し、戦争未亡人の問題や、戦勝に浮かれる庶民への皮肉を的確に指摘していました。新宮キリスト教会では、非戦のひとり演説なども開いていました。
浄泉寺の住職高木顕明(たかぎけんみょう)も、提灯行列を苦々しい思いで境内で聴いています。やがて日露戦争の勝利に鼓舞されて、明治41年大道(おおみち)というところに建立される「忠魂碑(ちゅうこんひ)」について、町内の僧侶としてただひとり反対し、僧侶仲間からは排斥されていったのです。だから、町民たちの提灯行列の「バンザイ!、バンザイ!」の連呼は、大石や高木らにとっては、「アブナイ!、アブナイ!」としか聞き取れないものだったのです。

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