館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代(22)

・春夫の高等小学校時代から新宮中学入学へ
明治36年2月11日下本町の男子高等小学校で紀元節恒例の拝賀式が行われていますが、いつもと違うのは、椿和歌山県知事の出席のもと、部長以下各地の学校長も召集されていました。知事の臨席は、近隣にできた第一尋常小学校の開校式が引き続き行われたためで、高等小学校でも祝意を表して3日間休校、展覧会などを催しています。
この期間、新宮の短歌界が新しい動きを始めるきっかけにもなりました。前年4月下里から男子高等小学校に転勤していた清水儀六(号は友猿・ゆうえん)が、「睦月会(むつきかい)」に参加を誘われ、新派短歌の運動に積極的に係わり始め、やがて指導的な立場を発揮してゆきます。さらに数年後、新宮高等小学校に教員として赴任してきた和貝彦太郎(号は夕潮・ゆうしお・芦風とも号す)が、「睦月会」とは距離を置いていたものの、中野緑葉(本名・匡吉)や坪井思潮(本名・英一)らが回覧雑誌を発刊し、やがて月刊の謄写版「みどり葉」を刊行したと言うことですが、和貝は教師としてその指導的な立場で、短歌会などを自宅で開いて啓蒙に努めています。
同じ高小生下村悦夫(紅霞とも号す・本名は悦雄)も加わり、そこに卒業生で新宮中学に進学していた佐藤春夫や奥栄一(愁羊あるいは愁洋と号す)も参画しています。残念ながらその痕跡は回想にしか存在しないのですが。(中野緑葉の「熊野歌壇の回顧」・大正12年6月「朱光土」1号)
そのことと関連して、春夫の回想によく出てくる明治37年4月の新宮中学に入学の際に面接で答えたと言う「文学者を目指している」という科白(せりふ)です。「その時わたくしは将来の志望はと問われて文学者と答えたのは、ほんの子ども心にそう思っただけで、第一に文学というものをそれほど知っているはずもない。」春夫自身も「私の履歴書」(昭和31年7月「日本経済新聞」に8回にわたって連載)で述べているように、まだ文学に目覚めているとはとても言い得ない状況であったようです。
その参考になる資料が最近見つかりました。明治37年1月から7月までの日記です。それは、ちょうど春夫が高等小学校を卒業して新宮中学校に入学する時期に当たります。日記や備忘録をほとんど残さなかったとされてきた春夫だけに、貴重な発見になりました。

 

春夫の日記「一寸光陰不可軽」、父の命名、父の訓戒が父親の字で記されている。

まず「一寸光陰不可軽」(一寸の光陰、軽んずべからず)と題した冊子(以後「日記」と記す)には、「日誌ハ毎夜褥前必ス記スベシ 日誌ハ事実ヲ有ノ侭記スベシ 日誌ハ事実ニ就テノ感想ヲ飾(カザラ)ズ記スベシ」と見開きに記されていて、寝る前に今日一日の事実をありのままに感想を交えて記すようにと。恐らく父豊太郎の教訓として述べられたもので、父の筆跡です。日記の記述も、教育熱心な父の「強制」によるものであって、そこには「素直な少年」春夫が仄見えていると言えましょうか。
しばらく、その記述を辿ってみます。
「丗七年一月一日 金曜晴天 華氏六十一度
朝六時起ントセシニ母ニ止メラレ六時三十分寝床ヲ出デヽ先第一ニ空ヲナガメシニ一ツノ雲モナクハレワタツテ居タノデ又家ニ入ツテ着物ヲ着返ヘ雑ニ(注・雑煮のこと)ヲ祝ヒテ後学校ヘ行カント門ニ出シニ処々ノ松カザリハ喜瑞ヲ表シ又戸毎ノ旭旗ハ国威ノ盛ナノヲ表シタル如ク見ヘナク雀ノ声サヘイトウレシゲニキコエル八時四十分学校ニ行テ 拝顔式ヲ行ヒ終テ請川君等ト年始週リニ行再ビ行ヒル飯後双六ヲナシテ遊ンダ後夜双六ヲシタ八時寝ニ付ク」
これがまず書き出しです。全体、片仮名表記ですが、以後引用等はひらがな表記に改めてみます。
その前にひとつ確認しておかねばならないことは、この年2月に日露戦争が開戦になることと、春夫は4月に新宮中学校に入学することです。高等小学校を卒業して中学校に進学するに際し、ほとんど日常の変化はなく、その心構えというようなものも記されていません。その前に入学試験が行われた気配がないことに加え、面接で文学者になりたいと答えたという、その面接の形跡もうかがえません。開校間もなくの新宮中学では当初は入学選抜が行われたようですが、次第に定員割れの状況が続いて、選抜試験は行われず、面接のみが行われたのでしょう。それは、前年のことであったかも知れません。「日記」から窺えるのは、文学に目覚めているとはとても言い得ない状況を伝えているばかりです。テニスに興じたり、「ベースボール」(正岡子規の「野球」という訳語はまだ定着していない)をしたり、城山で遊んだり、弟秋雄と小浜(おばま)に遊泳に行ったり、休みの日に熊野川を渡って(「渡船」で、まだ架橋されていない)友人宅に遊びに行ったり、ごくありふれた普通の子どもの生活実態が描かれています。一方、そこには日露の戦意高揚に呼応する子ども姿も鮮明に出ています。
春夫が正月から読み始めている「少年世界」は、巌谷小波(いわやさざなみ)を主筆として1895(明治28)1月に創刊されたもので、1933(昭和8)年頃まで大手の出版社博文館が刊行していた少年向けの総合雑誌です。博文館はこの年2月20日に「日露戦争実記」を刊行して一大ベストセラーになっています。春夫もそれを目にしたのかどうか、目にした可能性は十分にあります。
それでは春夫が本格的に文学の道に進もうとしたのはいつの時期からか、そのことに向けて春夫の新宮中学時代を辿ることになります。

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