館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代(9)

・父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(5)

「自分は今はこの懸泉堂で父祖の仏に仕へて余命を過してゐるが、明治十九年から大正の十一年まで新宮で医者をしてゐたはお前も知つてのとほり。」と「老父のはなし」(昭和8年10月「文芸春秋」)は書き始められています。途中、北海道に渡ったりして、熊野病院を他人に貸し与え、閉院した時期もありましたから、ずっと新宮で病院を続けていたとは言い難いのですが、豊太郎の意識の中ではこの期間が新宮での滞在時期と言うことになるのでしょう。

大正11年3月、61歳になった豊太郎は、新宮の家督を春夫に譲り、自身は懸泉堂の家督を相続します。
大正13年3月4日付の小野芳彦の日記には、豊太郎が下里に帰るので挨拶に見えたという記述が見えます。その要旨を辿ると、「(佐藤氏、最近、徐福町に新宅を建築せられしが)同氏の義父百樹大人すでに八十二歳とて同氏の帰園を待望せられること切なるものあり、もとの本宅に接し立派な二階建一棟を新築せられたりしが、今日豊太郎氏は、近々帰任せられるとかで、(小野氏宅に)挨拶に見えらる。氏は新宮にて開業せらるること三十九年に及び、地方医界の一大成功者なり。氏の創設経営せられ居りしもとの熊野病院は岡順二氏に譲渡され、徐福町の新宅には、令孫(新中生龍児君、高女生智恵子さん)と竹田義妹さんを置かるる由なり」とあります。義妹とは竹田熊代で、竹田家は熊代が相続しています。また、春夫が北海道の十弗から出した大正13年8月14日付の平泉中尊寺の絵葉書は、「東牟婁郡下里村高芝 佐藤豊太郎様」あてになっています。

婿養子で百樹を名乗り懸泉堂を守り続けた鞠峯は、昭和5年11月89歳で亡くなります。
豊太郎は、懸泉堂を守り、悠々自適な余生を望んだはずですが、必ずしもそれは実現できたとは言えませんでした。
紀伊半島を巡る紀勢線の鉄道敷設は大正時代から進められていて、和歌山から鉄路は延びてきますが、難工事の連続でなかなか進捗せず、新宮を起点とする中間起工が実行されることになります。田原・下里間が、急きょ路線変更になり、懸泉堂の一画も含まれてくるのです。のちに利権が絡んでいたことなどが判明します。昭和7年6月佐藤豊太郎他3名が、鉄道大臣他宛てに歎願書を提出したりしますが、鉄道省は昭和8年7月から土地収用法を適用して強制収用に乗り出します。強制的な割譲要請に対して、豊太郎側では裁判闘争を開始します。

和歌山市の南紀芸術社を主宰した猪場毅(いばたけし・のちに永井荷風の作品を盗作したとして問題になります)らが、古来歌枕の地玉之浦海岸の景観保全と由緒ある懸泉堂の破壊への抗議から、全国の文化人に呼びかける運動を展開します。地元の八尺鏡野(やたがの)区連名のものや、懸泉堂同窓会からの保存の嘆願書なども残されています。しかしながら、嘆願や運動が功を奏することはなく、鉄路が懸泉堂の庭を削り、玉之浦海岸すれすれを通ってゆくのです。

懸泉堂には、「鉄道問題」に関する大量の書類や書簡類が残されていますが、夏樹から父宛ての書簡には、「収用法ははなはだシャク」などの文言も見えます。

鉄道建設で破壊された玉の浦(南紀風物誌掲載)


南紀風物誌(西瀬英一著・昭和9年8月 竹村書房)

西瀬は、大阪毎日の記者として、懸泉堂保全への情報を発信した。

佐藤春夫も「熊野路」(昭和11年4月刊)や「ふるさと」(昭和15年12月刊)という作品で、この「鉄道問題」に触れていますが、父の寿命をあきらかに縮めさせたのは間違いがないと述べています。豊太郎にとって懸泉堂の強制割譲は、その余生をすっかり狂わせるものになり、神経をすり減らす日々を余儀なくされるのです。
昭和17年3月、すでに妻政代に先立たれていた豊太郎は(政代は昭和14年 6月29日、79歳で亡くなっています、この時谷崎潤一郎は熊野の地まで弔問に訪れています。)、孫の竹田龍児と谷崎の娘鮎子との間に生まれた女児百百子(ももこ)の顔を見るために上京します。戦時下で交通事情もままならないなか、機帆船朝日丸での上京でしたが、東京湾には防潜網が張られていて入港かなわず、伊豆の下田で下船しなければならなくなり、バスで天城越えをしてほうほうの態で関口町の春夫の家にたどり着きます。強行な旅の疲れが災いして春夫宅で風邪をこじらせ床に就き、肺炎を併発して24日、81歳で亡くなるのです。その前年、昭和16年10月25日、医師として期待をかけた息子秋雄を43歳で亡くしていました。

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この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を熊エプに転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
(熊エプ編集長・西 敏)

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