館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代(4)

・春夫の誕生(4)
春夫が幼年時代を回想した「わが生ひ立ち」と題した文はふたつあります。大正8年7月8月、大阪朝日夕刊に連載されたもので「幾つかの小品から成り立つ幼年小説」と副題が付されたものと、大正13年8~10月の「女性改造」に連載されたものです。
大正15年1~11月の「新潮」に連載された「回想 自伝の第一頁」では、「はしがき」に「全く僕は、今までにも「わが生ひ立ち」を二度も企てて中絶してしまつてゐる。/ままよ、僕はもう一ぺん始める。」とあります。

新宮市船町にある生誕跡地の表示

 


側面には父豊太郎が詠んだ「生誕の句」が(揮毫は春夫)

 

焼失した生家に係わるものに関しては、3歳の折、熊野川で溺れかけた話。家からほんの近くに河原へ下りてゆく道がありました。7歳の姉が泣きながら自宅に帰り、春さんが川へ這って入って行ったという。慌てて駈けつけてみると、幸い辺りにいた人に救いあげられていたということです。親は死にかけた話としてよく語った、と言うことです。5歳の春に行われたという新築の家への移住については、記憶は飛んでいると、春夫は語っています。その年の秋、姉に連れられて生家を見に行きました。「見たところごく有りふれた同じ造りの二階家が二三軒、軒を連ねてゐたのは、恐らく同じ持主の借家ではなかつたらうか。思ふに、父がその後すぐ病院を建てるに当つてM―といふ、当時、町で第一と云はれてゐる材木商の持家でもあつたらうか。」(「追懐」・昭和31年4~5月「中央公論」)と述べています。この家での断片的な思い出として繰り返されているのは、庭でウサギを箱から出してしまい、倉と隣家の隙間に逃げ込まれて往生した話、それに近所の子が「ぬすんだのじゃない!」と大声で泣き叫び、巡査まで出入りした大騒動。「その狂ほしく泣き叫ぶ声が、恐怖を私にまで感染させた。」経験でした。「私はこの家の二階と梯子段とのありさまを、暗のなかの仄明りに認めるがごとくに思ひ浮べ得る。」(「一ばん古い記憶」・「わが生ひ立ち」所収)とも述べています。
さて、登坂に建てられた父の病院、及び自宅は、「父の病院は町の東にある。城山の山麓の荒地を拓いて建てられた。土地は北に山を負ひ南は城のお濠の一部がまだ残つて池になり、池のぐるりには竹藪や桜の堤、黄櫨の古木の夕もみじなどがあつて、自らに南窓の四時の眺めは自然の庭園になつてゐた。(略)山麓を切り拓いた土地は崖によつて山に接してゐたから崖下の庭は山につづいて自らに山中の趣があり、山鳥が去来した。」(『日本の風景』の「(2)父の家」)という環境で、春夫は幼いころから自然と共に、自然の中で育ったのです。
俳人でもあった父豊太郎は、春夫に幼い時から自然を眺め、観察することの大切さを教えた、と言います。春の初めころには、「初かわず」を聞きに行こうと散歩に連れ出したりしたそうです。カエルの泣き始めです。俳句と言うものは、ものの始めと終わりを喜ぶものだとも教えたということです。春夫の小動物や鳥などへの興味も幼いころから育まれました。「さるまわし」の猿を譲り受けることを望んだ稚(おさ)ない春夫に、それが失敗し、ぐずられる話などもあります。猿回しのさるは生活の糧であるがゆえに譲ってもらえないのだということを悟らせる話にもなっています(「さるまわし」・「こころに光を 四年生」昭和33年6月・全集未収録)。
登坂の家は、「蕙雨山房(けいうさんぼう)」とも称されていますが、おそらく豊太郎の命名で、「恵雨」、恵みの雨、慈雨にちなんで、「蕙雨」とは、草の香りを運んでくる雨と言う意味を込めた造語とも言えます。「山房」とは、山の中の住居、山荘の意と共に、書斎の意味もありますから、ここでは「書斎」の意です。夏目漱石の「漱石山房」の名がまず浮かびますが、漱石を敬愛してやまない豊太郎にとっては、しかも書幅を所有し、書簡を何通か受け取っている豊太郎としては(最新版「漱石全集」(2019年9月、11月)には、書簡番号1535、1554、2453、2527の4通が紹介)、十分に意識していたに違いありません。
春夫に「蕙雨山房の記」(大正11年12月・東京朝日新聞)のある所以でもあります。

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この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を熊エプに転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
(熊エプ編集長・西 敏)

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