館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代(3)

・春夫の誕生(3)
春夫の回想文などには、「火事で焼け出されて」熊野病院に転居を余儀なくされたという記述がほとんどないところから、すでに熊野病院内に転宅してから、生家が焼失したことになります。「五つまで住んでゐたその家は、私たちがゐなくなつて間もなく町の大火事で焼けた。」(「わが生ひ立ち」・大正13年8~11月「女性改造」)と記されています。
豊太郎の知人であった小野芳彦の日記に、明治27年9月3日熊野病院が登坂に開院されるという記述がみえます。城山の南麓、登坂の地に竹藪を切り開いて建設した病院は、「熊野病院」と名付けられたようですが、そのとき名称変更したのかどうか判然しません。時に「佐藤病院」とも呼ばれていたようです。
紀州徳川家の付家老の水野氏の居城であったお城は、明治維新後たちまちに取り壊され、いち早く民間に譲渡されていますから、薩長の藩閥政府の支配下で、世情を察知した人々は荒廃に任せるままの状態だったのです。民間所有であった関係から、城跡に展望塔が出来たり、動物園が出来たり、おそらくわが国では唯一、城下を鉄道トンネルが貫通しています。
春夫の回想文を参考にすれば、明治29年春、病院棟横に自宅を建設して転居、7棟になったと言うことですが、その年の秋、姉に連れられて、焼失前の生家を訪れています。いまでは、ほんの目と鼻の先の距離に当たるのですが、当時はお濠の土堤が残り、小山の八幡山がありました。
この大火の直後、発刊されたのが「熊野新報」紙です。「新宮市史年表」では、12月1日発刊とありますが、それだと12月2日の大火の記事は載っていないことになります。現存する2号(12月22日付)から推察すれば12月15日付創刊で、毎火曜日の刊、医師でもあった宮本守中が社主、「丹鶴叢書」の編纂者で国学者山田常典の息山田正(号は菊園)が主筆、創刊号は大火の被災を大きく報じる内容だったはずです。その痕跡は2号にも刻まれています。町政の「改革派」と言われた人々の拠り所となった同紙は、豊太郎らも志を同じくするものでした。後に宮本は「改革派」の人々に推されて町長を務めています(明治38年3月30日~39年2月28日)。

佐藤春夫(右)と弟夏樹(左)(明治34~35年ごろ)

春夫の生誕前後、新宮の町は二つの大きな災害に見舞われ、その復興の槌音がこだましている環境だったと言えるのです。そうして国家的な大事としては、明治27、28年の日清戦争を挟んでいますが、春夫にとっては、年齢的にもまったく記憶にはなく、ただ日清戦争実記という雑誌の合本や日清戦争画報という本の裏などに、その後春夫は、墨で縦横に軍人の絵などを描いていたようで、長く蔵の隅にそれらが残されていたということです。(「わが生ひ立ち」)

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この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を熊エプに転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
(熊エプ編集長・西 敏)

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