館長のつぶやき「佐藤春夫の少年時代」(21)

佐藤春夫の小学校時代

春夫の父親の系譜、母親の系譜などを多岐にわたって記述してきたために、なかなか春夫自身の成長する記述に辿り着けませんでした。ようやく小学校時代に辿り着けた感じです。
春夫が新宮尋常小学校(後の丹鶴小学校)に入学するのは、1898(明治31)年4月、6歳の時で、教育熱心な父が当局と掛け合って、学齢より1年早く変則での入学を許可してもらったからであったことは、既に触れました。この年7月、就学児童の増加によって、高等小学校、第2小学校を分離して(熊野地の地に独立)、新宮尋常小学校は「新宮第一小学校」と改称されています。児童数は男540人、女489人でした。(「にづる」昭和48年7月・丹鶴小「創立百周年記念特集」)
春夫は小学校時代から学校嫌いでした、学校と言う制度、その規制には全くなじめないものでした。集団生活での苦手意識は、終生ついて回ったものです。
「その年ごろのすべての子供たちがさうであるやうに、私も学校といふものに就ては憧憬を持つてゐたやうに思ふ。それにも拘らず、学校は私には少しも愉快なところではなかつた。私は私の生涯に於て学校から教へられたものは何一つないといふ反抗的な気持を、私の知つている限りのあらゆる学校に対して抱懐してゐる。外のことは今言はないとして、小学校に於ては、私はそこではたヾ口を利いてはいけないといふ悲しい時間をあとへあとへ与へられたにしかすぎないと思ふ。」と、春夫は「わが生ひ立ち」で述べています。また「回想」という文章では、先生との相性の悪さにも言い及んでいます。
「僕は禁を犯してものを言つてしまふことが時々あつた。すると先生は長い竹の根の鞭(子供らはそれをネブイチと呼んでゐたが)で、したたかに教壇をたたくのだ。さうして太皷部屋へ放り込みますと宣言する。尤も、事実は別にそんな監禁はしなかつたけれども、しかし、最初にさう言はれた時の僕の恐怖はすさまじいものであつた。太皷部屋といふ一語が僕をそれほど脅したのだ。」
春夫にトラウマを植え付けた「太皷部屋」、その太皷は、新宮城への登城を促すものでしたが、廃城後は移されて学校の始業を告げるために打ち鳴らされていました。校門の傍らにあって、3階の小さな部屋、昼も蝙蝠が飛ぶという薄暗さ、その太皷部屋は、いたずらをした子どもを折檻するために閉じ込めておく場所として、子どもたちにはことのほか恐れられている場所でした。
また、「僕はまた学校でなかなか友達といふものを容易につくれなかつた。さうして幼年期の記憶の重なるものは、決して学校にはなくて、重に家庭にばかりある。」(「回想 自伝の第一頁」)とも言っています。

 

明治37年に完成した新宮第一尋常小学校校庭の体操器械。同年8月体操遊技の講習会が行われている。

小学校時代、高等小学校時代の春夫について、一緒に遊んだ古谷金喜は「親分肌」であったと回想しています(聞き書き「明治っ子の生活―佐藤春夫と遊んだ少年時代」・「灯台」1964年4月・「新高八十年史」に転載)。
勝負事としての「メンコ遊び」。ショウヤケンとかシャッケンとか言われた、武者絵や軍人の画が描かれた丸い券を打ち付けて(すべて丸で四角のものはなかったという)、相手のをひっくり返すか、掬うかして勝ち負けを競う、その券を売り買いもする、そんな遊びに興じたのと、あと「バイ回し」。貝殻を作為してコマとして廻して競い合う、スリバチの中などでもやったということです。
小学校4年生から高等科にかけてやったのは、ハゼ釣りと川エビ掻き。ハゼ釣りは熊野川の河口へ、エビ掻きは川を遡って支流の相野谷川(おのだにがわ)との分岐あたりへ、タモ(口輪に竹や針金のついた袋状の魚を獲る網)を持参で。日曜日などは弁当持ちで出かけました。時に、船を操ってのこともあったようです。船を操る時は大人も係わったのでしょうが、この子供の遊びにも類する「エビ掻き」は、のちに幸徳秋水を迎えての大石誠之助らの舟遊びにも通ずるものでした。秋水乗船の折に、子どもや女性も乗り合わせていたとされるのもごく普通のことだったのです。
春夫が親分肌であったとする古谷の回想も、「佐藤君、佐藤君」と付いて行って、着物と草履姿で野山を駆け巡った「いくさごっこ」などでも、大将役であったといいますが、古谷も春夫と同年生まれ、いつも往診してもらった医師の息子であるということで、一目置かれている面もあったようです。
「大将格」になるためには、春夫自身の試練も必要であったと言えます。他人よりも1年早く入学したために、体格的にも小柄で神経質、いじめられたことなどもあって、まずは「学校ぎらい」から出発したようですが、「復讐」の項目(「回想 自伝の第一頁」)に描かれているエピソードは、春夫を「大将格」に押し上げる要素となったのかも知れません。同じ話が「性癖」の項(「わが生ひ立ち」)にもあります。
「僕が八つぐらゐの時に近所のいぢめつ児に摑まつて、さまざまな難題を持ちかけられたり折檻されたりして、くやしさが骨身に沁みた事は以前にも書いたがぼくはそれから六七年も経つた後までどうしてもその怨恨を忘れ得なかつた。」と言います。近所のガキ大将は2、3歳上、理由も分からないまま殴りつけてきました。そんな状況が2、3年続いたということです。「狼に追いかけられる兎を私は体験した。」と記しているほどです。そんな「私」が13歳か14歳になった頃、自分が強くなったと言う自信を得たと言います。それは体力的にも精神的にもということでしょう。高等小学校に進んだ頃ということにもなりましょうか。
或る日、かってのいじめっ子が、幼い弟を連れて無断で春夫の家の敷地内の庭で遊ばせていました。その不当をなじった「私」は、過去の行いを糾弾し、突然に石垣に首を押さえつけて殴り掛かりました。無抵抗であったのは、ひょっとして自分の敷地内だったかもしれないと思って、後日、街中で呼び止め、再度挑発してみましたが、かってのいじめっ子はすごすごと退散していったということです。そんな復讐話です。
春夫はそこまでは描いていないのですが、このいじめっ子への「逆襲」は、いじめっ子の立場からすればまさに「不意打ち」で、分別がつき始めた年齢の意識からすれば、次第に家庭環境なども作用して、子ども社会に位相を生じさせ、諸事情が重なって、いじめっ子といじめられっ子の立場が逆転されるのも、「子ども世界」ではありうることです。既述のように医師の息子であったことから一目置かれる状況が生まれてくるのも、成長するにつれて子ども達の意識下では起こりうることで、春夫自身がどこまで身の周りに起こり始めていた状況に自覚的であったかどうかは、判然しないものの、描かれているのは憤怒(ふんぬ)の激情であり、それが自身の「性癖」としての把握です。繊細さと大胆さとを併存させながら春夫は成長していったと言えます。自然界への注目、愛着を内包させながら、人間界、子ども世界への係わりも深めていったのだとも言えます。
春夫は明治35年3月、「新宮尋常小学校」から「第1尋常小学校」へと名称変更した学校を4年で卒業し、通りを隔てた所にあった修業年限2ケ年の「新宮高等小学校男子部」に入学します。それより先、明治32年4月、「新宮高等小学校」は男子、女子の2校に分けられ、「女子高等小学校」は谷王子の地に新築移転、開校していました。小学校令の一部改正によって、尋常小学校が修業年限6年に延長されるのは明治40年3月のことでした。

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