館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代(2)

・春夫の誕生(2)

明治22年の大洪水は、十津川水系の山塊が大きく崩壊、本宮神社が流され、奈良県十津川村も大被害を被って、多くの住民が北海道移住を余儀なくされた大惨事でした。未開の地であった北海道での開拓の労苦で「新十津川村」が作られてゆく経緯は、いくつかの書物で語られています。
この時、新宮でも未曽有の洪水被害に見舞われました。町全体が浸水し、町民は高台に避難していたのですが、いったん水が引き始め一段落と思って安堵していた折、第二波の水が押し寄せてきたと言います。幸い昼間で、死者等は出なかったようですが、十津川の山山の大崩壊で堰き止められていた水が、再び押し寄せてきたのです。浸水被害の状況などは「新宮市誌」(昭和12年刊)に詳しく記されています。千穂ケ峰の山際、清閑院の石垣上には、その時の水位を表示した標が作られています。

 

瑞泉寺鐘楼(2020年5月撮影)

 


清閑院石垣(2020年5月撮影)

 

春夫は、後年(昭和28年10月「群像」)「洪水のはなし」を書いていて、自身が生誕する直前、父の体験談や聞き取った話を記述していますが、そこに清閑院の隣、瑞泉寺(ずいせんじ・通称大寺)の鐘楼に避難した男床辰の話も出てきます。妻子を裏山に逃がし、腰にぶら下げた瓢箪から、酒をちびりちびり傾けていると、眼下に泥水が押し寄せてきました。
また、春夫の生家をも焼失させた明治29年の大火については、「明治廿九年十二月二日午後十二時新宮道下(どうげ)町某洗湯屋より火を発し、折柄西北の強風に煽られ、火は四方に延焼し火元の道下町は勿論のこと、南して別当屋敷(べっとうやしき)、横町を焼き尽して龍鼓橋(りゅうこばし)畔に至り、西北するものは雑賀町(さいかまち)より下本町、上本町、御幸町(ごこうまち)、上船町等を焼きて下船町に及び森家に至り、付近各町村よりの消防隊の尽力にて翌三日午前七時に至りて鎮火せり、焼失戸数八百十戸、納屋八百〇八戸、土蔵二十五棟に及」んだ(「新宮市誌」)と言います。この時、薬師町にあった丹鶴山東仙寺も焼失、その後一帯は、大王地の花街として生まれ変わってゆくのです。
石造りの龍鼓橋までは、町方(まちかた)、それから外は地方(じかた)といわれましたが、旧城下に当たる町方の多くが焼失区域でした。焼失区域のうち一番東北に当たる区域が、下船町の「森家」の一画で、その辺が春夫の生誕の家であって、敷地面積2畝26歩(86坪)、明治24年11月豊太郎が坪井亀之助から購入したものとなっていますが、もともとは坪井が森家から手に入れたものと思われ、豊太郎一家は、それ以前から住み続けていたものと推測されます。
ところで、龍鼓橋から西側の山、千穂ケ峰の岩肌を落ちるのが龍鼓の滝です。父豊太郎は隠居して、龍鼓の滝の下あたりに山荘を構えたいとの望みを持っていたようですが、それはかないませんでした。
春夫の『日本の風景』(昭和33年1~12月雑誌「心」)の「(2)父の家」には、次のように述べられています―「父は、また町のはづれ王子ケ浜の王子権現の祠(ほこら)のうら手にある松山の小さな盆地のなかに芋畑(いもばたけ)をつくり柿やみかんを植ゑて晩年はこの地に隠居して松琴鼓濤(しょうきんことう)の間に老いたいと云つてゐた。父の空想してゐた隠居所はもうひとつ西山のほとんど中央にある竜鼓滝(りゅうごのたき・ママ)の渓流(けいりゅう)に沿つた竹林のなかにもあつた。この方は毎日、診察室の窓から滝を眺めてはその下の土地を想望(そうぼう)して心に清閑(せいかん)を楽しんでゐる様子であつた。」

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この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を熊エプに転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
(熊エプ編集長・西 敏)

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