館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(13)

・父の医学修業と新宮での開院(4)
森佐五右衛門は、明治26年5月から翌年の4月まで新宮町長を務めています。わずか1年間だけでしたが、そのことが早い目の隠居生活につながるのかもしれません。

森の隠居所は「千種葊(あん=庵)」と言い、新宮町の西側の隅、相筋(あいすじ)にあり、本邸は下馬町(しもうままち)にありました。相筋は明治の末に遊郭が設置される、三本杉があって、丸池があった、そのほんそばでした。

森は明治34、5年頃から糖尿病に悩まされ、38年の9月に養生を兼ねて京都に移住したようです。森の母親は京都生まれで、森は青少年時代からしばしば京都に遊んだと言うことです。明治39年豊太郎は見舞いのために上洛します。森は「はるばると渡り来ましし紀の海のそれより深し君がなさけは」という和歌を詠んで歓待してくれました。医業も忙しかろうが骨休めも兼ねしばらく滞在してはということで、10日間ほど滞在するうちに、森は急に「脳症を起され溘焉(こうえん・人の急な死)として長逝された。噫(ああ)其永別の悲磋(ひさ・悲しい嘆き)誌さんとして筆進まず几上に俯して歔欷(きょき・むせび泣き)これを久うす。時に夜窓秋雨瀟々(しょうしょう・寂しき雨)。/さびしくも閨(ねや)の窓うつ秋の雨ふりにしことをしのぶ夜すがら」と、豊太郎は万感の思いを込めて記しています。「ふりにし」は、雨が降ると「古い昔の思い出」との掛詞です。京都で逝去した森を偲んで書いた「森朗路翁を憶ふ」という文章(「南紀芸術」第2編第10冊・昭和9年1月)の結語に当たる個所です。

 

 

 

 

 

 

 

蕙雨山房主人(佐藤豊太郎)の「森朗路翁を憶ふ」が載る『南紀芸術』。表紙装幀は星野古陵画、題字は蕙雨山房主人。

 

 

 

 

 

 

 

その書き出し部分では、「翁の老友玉潔和尚は義気に富み且つ進歩主義の人で、私が開業した頃まだ西洋流の医者が少なかつたので私を鞭撻し又保護して下され、書生風を脱するには茶道を学ぶがよいと申され其初歩を授けられた」と書いています。豊太郎は森の周辺の文化人、知識人と親しくなり、漢学的な素養に磨きをかけました。のちに新宮中学開設に尽力し、春夫の中学時代の後見役にもなる漢学の大家小野芳彦との交流もそんななかで生まれたようです。小野は豊太郎よりも2歳年長、下里の高芝の地で明治10年代に小学校の教員をしたとき、佐藤家と縁のある佐藤源兵衛宅に止宿、のちにその養女を妻として、やがて生地の新宮に帰ってきて馬町に住みました。新宮中学で長く教鞭を執り、南方熊楠に資料等 を提供するとともに、郷土史の大家となります。死後刊行された浩瀚な大著『小野翁遺稿 熊野史』(昭和9年3月新宮中学同窓会刊)はその成果です。死の直前まで書き継がれた膨大な日記(明治大正昭和に亘る40数冊・昭和7年2月9日書き終えて床に就き明くる早朝、脳溢血で倒れ不帰の客となりました。享年73)は、新宮中学の歴史を辿るのに利用され、一部「新宮市史資料編下巻」に引用されているものの、研究が手つかずのまま眠っているのはいかにも惜しい。

春夫が父豊太郎の恩人森佐五右衛門に多く言及しているのは、最晩年の作品『わが北海道』の第4章「わが父のこと」です(「わが北海道」は昭和39年1月から3月「北海タイムス」に74回に亘って連載。6月新潮社から刊行されますが、春夫急逝後のことでした)。実家から飛び出す形で見も知らずの地、新宮で開業した豊太郎にとって「その時の地獄の佛、親切な家主さんが、父の患者の第一號ともなつて生涯わが父をこの上なく信頼し愛して父の力強い後援者ともなつた」と言います。「維新後も町内屈指の豪商であつた。偶然にもかういふ人を患家の第一號に持つた人の、醫者としての信用は町でも重きをなして、わが父の醫者としての信用の絲口はここにひらけたものであつた。」とも言います。

さらに、この森の援助が「この病院ばかりではなく、父がかねての夢を知つてかどうか、北海道へ進出にあたつても後援者となつたのは實にこの森老人であつた。」とも述べていて、豊太郎の北海道開拓の機縁も森を通してのものだったようです。

日清戦争後、木材を主とする新宮の商売人たちが、植民地となった台湾や朝鮮半島への注目から、そちらへ進出するものが多かったなかで、森が目を付けたのは北海道だったことで、豊太郎もすっかり意気投合したようです。かれらの先達として、大水害で被災した十津川村民が大挙北海道開拓に活路を見出そうとしたこともひとつの励みになったことでしょう。

明治2年(1869)に、明治政府は蝦夷地を「北海道」と改め、開拓使という役所を置きました。開拓史は官営工場の運営や、鉱山の開発などを行い、また北海道の開拓のため、日本各地から移住者を募って移住させました。

北海道の開発に伴い、先住民のアイヌ民族は従来の土地を失います。また、政府はアイヌに対して同化政策を強制、アイヌの風習の多くは否定されていったのです。アイヌの人びとは、日本語の使用や、日本風の姓名を名乗ることを強制されていったことも忘れてはならないことです。

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