館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(11)

テーマ:館長のつぶやき―佐藤春夫の少年時代
・父の医学修業と新宮での開院(2)
順天堂医事研究会は、明治18年から起こり毎月2回の集会を持ったといいますが、明治20年1月には「順天堂医事研究会報告」第1号が出ていますから、豊太郎は明治25年末か26年初めに上京して発表を行ったのでしょう。明治30年に野口英世が順天堂に職を奉じてこの雑誌の編集に当たったということです(「順天堂の歴史」小川鼎三・順天堂創立125周年記念講演「順天堂医学雑誌」)。

豊太郎は明治15年優秀な成績で和歌山の医学校を卒業した後、さらに医術を学ぶべく東京に遊学して順天堂に学んでいます。
順天堂は1838(天保9)年、佐藤泰然によって江戸の薬研堀に開塾された蘭方医学塾が始まりで、5年後「順天堂」と命名されて、現在の順天堂大学に及んでいます。天保14年には泰然は下総の佐倉藩に見込まれ、江戸を引き払っています。佐倉藩は他藩に先駆けていち早く西洋医学を採用した藩です。豊太郎の「昔佐倉の順天堂で子宮外妊娠に開腹術を施した事があつたとかいふが」とあったのは、幕末の佐倉時代ということで、明治になってからは豊太郎のが最初の誉れということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『閑談半日』 所収の「熊野と応挙・蘆雪」は初出が未詳。「老父のはなし」も収められています。

佐倉では長崎で学んだ佐藤泰然の養子佐藤尚中が、江戸では実子の松本良順(明治以後、順を名乗ります)がそれぞれ活躍し、幕末の医学教育の総元締めの役割を果たしています。

明治2(1869)年の冬、紀州熊野浦高芝の船人で豊太郎の母方の中地屋(なかじや)の一族である佐藤治右衛門(21歳)らが乗っていた船「住吉丸」が漂流、太平洋を漂っているところをアメリカの補助機関船に助けられるという出来事が起こっています。サンフランシスコに上陸すると、佐藤百太郎(ももたろう)という在留の日本人少年が通訳に出てきました。治右衛門は望郷の念に駆られ、2ヶ月くらいで帰国するのですが、その際百太郎の母堂宛の手紙を託され、届けたのを大変喜ばれたということがありました。

その日本人の少年佐藤百太郎は、順天堂の2代目佐藤尚中の長男でした。手紙を届けた親切が幸いして、順天堂では紀州高芝の者と云えば好意をもってくれていたということです。百太郎は医科の道に進まず、実業家として日米貿易の先駆者となり、日本における百貨店の創設者ともなるのです。百太郎は明治4年には、岩倉使節団一行の通訳も務めています。

豊太郎が東京に遊学して順天堂で学ぶのも、治右衛門と百太郎の関係がきっかけになったからだったと言われています。(「熊野懐旧録」佐藤良雄著の「熊野漂流民佐藤治右衛門と順天堂百太郎のサンフランシスの出会いについて」参照)。

豊太郎が順天堂で外科を志して師事した松本順が、明治23年春、田辺から中辺路を経て本宮に入り、瀞峡を見学して、新宮にやってきたことがありました。新宮からは豊太郎が案内して那智、勝浦、下里、古座を巡り、串本の無量寺で丸山応挙、長澤蘆雪の絵を鑑賞しました。それらの絵にいたく感動した松本は、応挙と蘆雪の子弟関係の機微について豊太郎に話し、国宝級のこれ等の絵を一般閲覧に供しているのは危険で、紙質の保存上も良くない、複製品の代え襖を作るのが良いと言って、寄付のノート帖を作らせて、最初に「松本順」と記したということです(春夫の「熊野と応挙・蘆雪」・『閑談半日』昭和9年7月所収)。松本は日本最初の陸軍軍医総監で、後に森鷗外もこの職に就きますが、わが国の衛生学の基礎も築き、マスク使用の有効性を初めて主張したとも言われています。この年9月、勅撰の貴族院議員にもなっています。

遡って「懐旧」によれば、豊太郎が地元の太地や那智で漢学の基礎や科学的知識を学んで、医学修業のために郷関を出るのは、明治11年3月、17歳の時でした。親戚宅に滞在し東京へ出て大学予備門に入るつもりだったようですが、まもなく重い脚気病にかかってしまいます。脚気は明治3年、4年にかけて大流行し、以後毎年6500から1万5千余の死者を出していた難病で、当時は原因が不明で、結核と並ぶ二大国民病でした。病原菌説や中毒説など種々論じられましたが、帝国陸軍では白米供給を頑なまでに貫き、日清・日露の戦役では多くの戦病死が脚気によるものだったのです。

豊太郎も志を果たせず、故郷帰還を余儀なくされます。幸い回復しましたが、遠方に行くことは許されず、和歌山の医学校に翌明治12年4月入学し、1年後主席を占め、3年の課程を経て卒業しました。郷関に帰ってしばらく医科を為したようですが、上京の念は消えがたく、譲渡されるべき資を当てに上京、順天堂で学んで医業を積み、主に外科学を修得して明治18年夏帰郷、23歳になっていました。やがて和歌山滞在中の下宿の娘との「自由結婚」を巡って、養父母らと齟齬を生じてゆくのです。

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