館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」76

おわりに(2)
大正3年12月、春夫はまだ無名の女優川路歌子(遠藤幸子(ゆきこ)・明治29年9月生)と同棲し、本郷区追分町9に新居を構えます。友人の武林無想庵が、春夫らをモデルに「新しい男女」を「読売新聞」に発表するのは、翌4年1月のことでした。3月には、牛込区新小川町3ノ20に転居、まもなく与謝野晶子らが、夫寛の衆議院議員立候補に際して、西村伊作らに援助求めて新宮にやってきます、その案内役として春夫夫妻も同行し、両親に挨拶します。その際であろうか、父は3年間というタイムリミットを設けて、自立するための援助を、その猶予を与えたのだと言います。

愛犬2頭愛猫2匹を伴って、夫妻が神奈川県都筑郡中里村字鉄に転居するのは、大正5年4月のこと、春夫24歳の時でした。「病める薔薇」の腹案がここから生まれます。さらに2年の歳月をかけて推敲を重ね、「田園の憂鬱」の成立へと春夫文学は順調にその段階を上りつつあったと言えます。

雑誌「新潮」が「人の印象」として、多くの作家たちを取り上げていますが、大正8年6月に第29回目として取り上げられたのは、「佐藤春夫氏の印象」です。春夫はすでに新進作家として認知されている証でもあります。

「佐藤春夫君と私と」谷崎潤一郎、「驚くべき早熟の男」生田春月、「何よりも先に詩人」芥川龍之介、「思ひだすがまヽに」奥栄一、「一人の親友として」与謝野晶子、「即興詩人として」生田長江が、それぞれ思いを語っています。

なかで、芥川が簡潔に、「一、佐藤春夫は詩人なり、何よりも先に詩人なり。或は誰よりも先にと云へるかも知れず。」とした後で、「三、佐藤の作品中、道徳を諷するものなきにあらず、哲学を寓するもの亦なきにあらざれど、その思想を彩るものは常に一脈の詩情なり。故に佐藤はその詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。佐藤の一身、詩仏と詩魔とを併せ蔵すと云ふも可なり。四、佐藤の詩情は最も世に云ふ世紀末の詩情に近きが如し。繊婉にして幽渺たる趣を兼ぬ。」と述べています。「大石誠之助」を「大石内蔵助」と記述している所などは、時代的に抹消されるのを勘案しての韜晦か、とも推測させます。

「即興詩人として」の長江は、初対面のときから議論し合った仲で、いい加減な雷同をしないでどこまでも事理を明らかにしようとする真剣さがあること、意見の本質については正々堂々、其の快さを指摘した後で、父母に言い及んでいます。

「佐藤君がどんなに柔らかな温い心情の持主であるかといふことは、作品を読むよりも何よりも、佐藤君の御母様を只だ一目見ただけで、御母様から只だ一の言葉をきいただけで、最もよく知れるのである。その頭脳を御父様から受け継いでゐる佐藤君は、その心臓を御母様からその儘に相続してゐるやうに見える。そして御母様から相続した物を内に包み、御父様から承け継いだ物を外に装ふてゐるやうに見える。私が佐藤君に於て最も羨ましいと思ふのは、あんな立派な御両親を、しかも佐藤君自身の内にまで有つてゐることである」。

生田長江は、春夫の両親の教育方針をゲーテの家族に擬(なぞら)えています。
奥栄一は「彼は遂に心棒だけになつた独楽のように、奇才と憤懣と、憂愁とを懐いて神奈川の山の中に這入つてしまつた。而して一年の後に彼が山の中から持つて帰つたものは何であったか、彼の出世作「田園の憂鬱」を書いた彼であつた。さうして彼は矢継早に「お絹と其兄弟」「李太白」などの長編を発表した。彼の秀でたる才能(タレント)を信じて疑はなかつた自分も、其フイブルな肉体と共に、其スタウトな霊が住んで居たことを発見して驚かされずには居られなかつた。「佐藤君は変つた」友人の中ではかうした私語が、言ひ合はしたやうに語られるやうになつた。其作物に驚かされた彼等は、以前に比して其温厚な君子人風な態度に更に驚かされたのであつた。併し今にして考へてみると、彼が変つたのではなくして、真実(ほんとう)の彼が我々に写りかけたに過ぎないのではないかと思ふ」と述べています。そうして、「さうだ彼は自分自身を掘り当てた。さうして彼が近頃書いた処のものは彼が生れたまヽの、自分である、Born poet としての叙事詩ではなからうか。さうして此叙事詩が文壇的盛名を臝得たと同じ結果(エフエクト)を、同時に自分の呼吸して居る現代の社会を、現実的苦悶を背景とした、より成長した彼自身の世界の芸術の収めらるヽの日を期待せざるを得ない。而してかの手にもおへないやうな複雑な性格を、あヽしてまで纏めていつた聡明な彼を思ふ時に、芸術家としての信頼を彼に持つ事に於ても、吝かならざるものである」と結んでいます。

けだし、中学時代から昼夜を徹して語り合った、知己の言と言うべきでしょうか。さらに「現代の社会」の「現実的苦悶」を要求しているところなどは、「社会性」を追い求めた春夫とは異なった奥栄一の面目があるのかも知れません。

辻本雄一

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