館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」75

おわりに(1)
春夫の上京までを目途に、その「反骨精神」の誕生の由来、醸成の土壌のようなものを探ってみようと出発したのでしたが、上京後もなかなか筆を納めきれなかったのは、上京して真直ぐに「文学」の道に邁進し、「大成」への道を歩み始めたのでは決してなかったこと、故郷熊野の地では、「大逆事件」の捜査が飛び火してきて、冤罪の形で知人たちが縛に繋がれ、果ては命を絶たれ、命を落としたりせざるをえない「現実」がのしかかって来たことです。

父豊太郎も、その周囲に居た人物のひとりでした。騒然とした街の動揺は、上京したひとりの青年の騒擾に(講演会への飛び入り演説から、新宮中学のストライキの流れ)端を発したと捉える町の人々も多く居ました。小野芳彦の日記に、大石誠之助逮捕の嫌疑の一つに、新宮中学の一件の記述もあるほどです。しかし、実際の逮捕容疑には、それは含まれてはいませんでした。

上京後、春夫は画家になろうか、文学の道に進もうかとの迷いに、数年間、悩みを抱えていたようです。さらに、文学の道といっても、詩人、小説家、批評家など、その道は多様です。画家であろうとするなら、幼い頃から画才を発揮していたこと、広川松五郎や広島光甫ら画家をめざす青年たちとの交友も盛んであったことなども無視できません。大正4、5、6年と「二科展」に、立て続けに「自画像」など6点が入選しているほどです。

毎年12月発行されている新宮中学の同窓会報「会報」には、卒業生各人の「現住所」と「現状況」が記載されているのですが、春夫の欄を見る限り、明治43年(「会誌」3号)以下大正3年(「会誌」7号)までは「慶応義塾大学(文科)」とあって、大正4年(「会誌」8号)から大正6年(「会誌」10号)までは、「絵画ノ研究」とあり、大正7年(「会誌」11号)以降は「絵画・文学ノ研究」とあります。

「在学五年八ケ月、進級一度」といわれる慶應義塾を春夫は退学しますが、ほとんど学校には出ていませんでした。しかし、学校にはあまり出ていなかったと言われているものの、山高帽に鼻眼鏡姿で三田の校庭を歩く姿は、先輩の小泉信三ほかの印象には刻まれていて、とても学生とは見えず若手の教授と間違えられ、学生たちが帽子を取って挨拶する風景などがエピソードとして語り伝えられています。昭和3年1月「三田文学」に発表された「ヴィッカスホールの玄関に / 咲きまつはつた凌霄花 / 感傷的でよかつたが / 今も枯れずに残れりや」で始まる「酒、歌、煙草、また女―三田の学生時代を唄へる歌―」は、学生時代を懐かしみながら、「傲(おご)れるわれ」をも捉えています。

大正2年9月、21歳の春夫は、「慶応義塾を退学す。すでに先年よりただ学籍を置きしのみにて全く通学せざりしなり」と自筆年譜には記しています。「会誌」の記載は、実際の慶応在学と比べると若干のズレはあるものの、それは幹事との連絡不十分な精もあるでしょう。
大正4年から3年間は「絵画ノ研究」とあったのが、作品が世に出始めた大正7年頃から「絵画・文学ノ研究」となって、さらに大正15年(「会誌」19号)からは、「文学・絵画ノ研究」と、「文学」が上位に置かれ、昭和期に引き継がれていきます。

恩師小野芳彦の日記(大正7年12月14日付)には、「在 東京  佐藤春夫君より その新著  病める薔薇  壹部  恵与せらる  春夫君ハ佐藤豊太郎君の令嗣にて  近来 文壇に隆々その名を掲げられつつあり」とあって、さらに続けて同著に収められた10編の作品名を上げ、さらに同著に寄せれた谷崎潤一郎の序文を詳細に記して、その日の記事のほとんど全部を春夫の事に当てています。佐藤家との付き合いも深い小野は、春夫とも一師弟の関係を越えたつながりを持ち、春夫の活躍に大きな期待を寄せていたものと思われます。春夫も小野への敬意を失わず、小野が生徒を引率して修学旅行で上京した時には、何より先に挨拶に宿を訪れ、『熊野路』を上梓した折には、小野の著「熊野史」の一節を巻頭に据えているのです。

大正10年7月、新潮社から『殉情詩集』を上梓した時、春夫はその序で、いままでの所謂社会性の強い「傾向詩」と言われるものを排除してこの詩集を編んだと言う意味のことを述べていますが、「純情」や「抒情」ならぬ、「殉情」と名付けた真意には、社会性を排除したことへの、一種のわだかまり、ズラシ、諧謔の意識が潜在していたのかも知れません。
収録の「断章」という詩では、「さまよひくれば秋ぐさの / 一つのこりて咲きにけり、/ おもかげ見えてなつかしく / 手折ればくるし、花ちりぬ。」

さらに、この詩にも通底している「きよく / かがやかに / たかく / ただひとり / なんぢ / 星のごとく」と題した「夕づつを見て」(『佐藤春夫詩集』所収)では、孤高に生きる気高さを、天に輝く星に託して抒情的に叙べられています。抒情の背景には、進むべき道への、躊躇、煩悶があったことも読み取れます。

「田園の憂鬱」の中の一節で、「その頃、・・・・城跡のうしろの黒い杉林のなかで、ーあの城山の最も高い石垣の真下の、それに沿うた細い小道である。そこには大きな杉の林があつて、一面にかさなつた杉の幹のごく少しの隙間から川が見えた。船の帆が見えた。足もとに大きな歯朶が茂つて居る。小道はいつも仄暗かつた。そうして杉の森に特有の重い濡れた高い匂があつた。その道を子供のころ一ばん好きであつた」というその小道に、ある夕方「大きな黒色の百合の花」を見い出します。よく見ていると「急に或る怪奇な伝説風の恐怖」に見舞われ、転げるように山路を駆け降りる。明くる日、そのあたりを隈なく探しますが、見つけられません。「それは彼には、奇怪に思える自然現象の最初の現われ」であったと言います。「そうして彼の家のうしろにある城跡の山や、その裏側の川に沿うた森のなかなどばかりを、よく一人で歩いたものであつた。「鍋割り」と人人の呼んで居た淵は、わけても彼の気に入つて居た。そこには石灰を焼く小屋があつた。石灰石、方解石の結晶が、彼の小さな頭に自然の神秘を教えた。また、その淵には、時時四畳半位な大きな碧瑠璃の渦が幾つも幾つも渦巻いたのを、彼はよく夢見心地で眺め入つた。そうしてそれを夢そのもののなかでも時折見た。そのころは八つか九つででもあつたろう」と言い、「あの頃から、もう神経衰弱だつたのか知ら」と述べ、「幻聴の癖」もその頃からか、と述べています。その後、幻聴も交えた、「幻想」は、春夫文学の骨子を成してゆくと言えます。と同時に、作品生成の妨げにもなる「神経衰弱」を誘発して行くのです。

辻本雄一

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