館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」69

春夫の上京(2)
春夫が言う国漢の2先生とは、小野芳彦と小田穣(みのる)とです。ふたりとも父豊太郎の知己。小田は千畝と号する新宮俳句界の草分け的存在で、漢詩も物して、新宮8景の漢詩を残しています。ちなみに8景を記せば、「神倉秋月」「鮒岳暮雪」「鴻田落雁」「乙基夕照」「王子晴嵐」「臥龍夜雨」「瑞泉晩鐘」「蓬莱帰帆」の、それぞれの絶句です。春夫の「わんぱく時代」に登場する「小野田先生」はふたりの合成名です。小田は、春夫の無期停学期間中の明治42年10月14日、在職中に逝去しています。小野が逝去するのは、昭和7年2月10日、享年73、熊野の生き字引と言われた小野の遺した「熊野史」は、考証的に熊野の歴史を語り、春夫は『熊野路』の巻頭にその引用を掲げ、熊野への導入の手引きにしています。

「図画の先生」というのは、島根県出雲出身の陸軍騎兵中尉あがりの竹下一郎。明治39年3月31日から新宮中学に赴任、明治42年4月9日に松江中学に転出しています。その3年余は、春夫にとっては落第をまたいでの頃で、春夫の印象に深いのは、4回卒の伊藤淳介と6回卒の植野明とともに3人で特別に水彩画を習ったからです。植野の記憶によれば、竹下は「中学世界」などに盛んに描いていた画家大下藤二郎の水彩画の講習会などに奈良まで出かけて行って研究する程の熱心な教師だったようです。当時の図画の時間は鉛筆使用の写生ばかり、そんななかで3人は選ばれて水彩画を学んだのだと言います。春夫の画はともすれば抽象画になりがちであったと植野は回顧しています。この竹下より2代先、春夫の入学時は美術担当は「夜汽車」を描いた赤松麟作であったことは既に述べましたが、春夫はほとんど印象に留めていないようです。画家と言えば石垣栄太郎も明治40年4月から43年9月まで新宮中学に在籍していますが、一緒に水彩画を習った形跡はありません。ちょうど春夫の停学や寄宿舎生をもまき込んでのストライキなどの折は、「在米国父兄ノ下ニ寄留」ということで、退学した後だったのです。太地生まれの石垣は寄宿舎に入っていました。石垣が入学した年に春夫は2度目の3年生で、明治40年10月の第6回運動会や、明治41年冬の柔道の寒げいこなどには共に参加していることが分かります(「会誌」に掲載)。

春夫の中学時代に培われた「反骨精神」も、例えば春夫が次のように記す母から父への説得も効果があって、春夫をあらぬ方向に向かうのを防いでくれたとも言えるのでしょう。

「わたくしはこういう少年期を秋霜のように厳格な父と春風のように慈愛に満ちた母との間に置かれて育った。家庭のこの両極端の風土は必ずや、わかくしの性情に普通でない影響感化を及ぼしているものと思うが、わたくし自身ではこれを見きわめることもできない。わたくしは当年、わたくしを白眼でみた人々に対して思ふこと少し教へにたごふらしふるさと人らわれを鞭うつとうそぶき歌ったものであった。この時もし母の慈愛による同情で、わたくしが文学者になることを父に承認させてくれなかったとしたら、おそらくわたくしは自暴自棄の果てどうなっていたかは知らない。 / わたくしは放校に似たような状態で、形だけはともかく中学を卒業したが、もう学校教育に対する信頼を全く失い、それでも家庭への申しわけに最も自由な学校にはいり、自分の尊敬できる先生を選びながらも、文学はしょせん学校で学ぶべきものでないと気づいて、当年の不眠症を幸いと終夜気の向いたものを乱読し、詩歌の試作みたいなものを書きちらしていた。そのため日中は眠って、学校に籍はありながらもほとんど通学もしなかった。思えば、そんな生活を四、五年もできたのも家に恒産があり、また母の説得による父の理解があったためである。」(「わが霊の遍歴」昭和36年1月「読売新聞」)

明治43年8月の「スバル」に発表された短歌は次のようなものでした。

「思ふことすべて教(おしへ)にたがふらむふるさと人はわれをしりぞく」

「教えに」反していたのが「すべて」であったのか「少し」であったのか、「ふるさとびと」は単に無視しただけであったのか、「鞭打つ」であったのか。石垣栄太郎がアメリカの地で世に出た最初の作品が「鞭打つ」(1925年)であったことが思い合わされます。春夫は、「ふるさと人らわれを鞭打つ」の心境に深く囚われ続けていたと言えます。

春夫もまた、1高受験に失敗、2日目からは受験を放棄、父親の期待を裏切る結果となりました。
その直後に、新宮町では「大逆事件」での検挙等で騒然となっており、父豊太郎も平穏ではいられなくなるのです。

辻本雄一

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