館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」68

春夫の上京(1)
こうして春夫の中学時代は終わり、明治43年3月31日新宮を出立して上京の途につきます。当日、春夫が挨拶に小野芳彦を訪れたことが、その日記から窺えます。「春夫君告別に来る。第一高文科志望の由」とあります。それより先3月24日に、小野は佐藤豊太郎を訪れ、「佐藤豊太郎君方に至り令嗣春夫君近日の中、修業の為上京せらるヽ由につき餞別としてハガキ三〇枚遣ふ」とあります。

父豊太郎も新宮に滞在しており、どう言って送り出したかは春夫もほとんど触れていません。ただ、息子の第1高等学校受験だけは待望していたでしょう。春夫は途中、名古屋で開催中の第10回関西府県連合共進会を見学(すでに触れたが、明治16年の大阪を皮切りに3年ごと開催、名古屋開府300年を迎えると言うことでこの年3月16日から6月13日まで90日間開催。入場料10銭、263万人が入場)、4月4日に東京に到着、しばらく生田長江宅に居候しました。この名古屋共進会は、田圃を埋め立てて会場が造られましたが、その後鶴舞公園として整備され、いまでもその時の噴水等が遺されていて、名古屋発展の起爆剤になったのです。

すでに3月15日には和貝彦太郎も上京の途に付き、下村悦夫もたまたま一緒になって上京しています。小野芳彦は3月27日の日記に和貝からの葉書を引用して、「東紅梅町二与謝野寛先生方 和貝彦太郎君よりハガキ」として、「『何か職業を求めて勉学せんものとの考へにて突然上京せるも、何分おくればせの老ぼれ者、一向に光明も見えず・・・・』と見ゆ」と記しています。和貝はその後、寛の助言等で日本大学で学ぶべく入学手続き、その後夏休みでいったん帰省、猛勉強に務めたと言いますが、新宮では「大逆事件」での検挙等が続いた直後、和貝も警察署刑事の尾行がつく状況となって、再び寛に上京を促され、その援助などで平出修事務所で勤めることになります。平出は、寛の依頼で熊野新宮関係者の高木顕明、崎久保誓一の弁護を担当することになり、和貝もその実務に携わります。同時に、雑誌「スバル」の編集にも関与し、石川啄木らと親交を深めてゆくのです。

春夫の新宮中学時代は、周りからは冷たい目で見られたでしょうが、先の小野のように父豊太郎との関係があったとはいえ、厄介を掛けられながらも暖かく見守っている人々もいたのです。

「とは云へ、この中学校も自分の少年時代を不愉快にし自分をいぢけさせたばかりでもなかつたらしい。自分の才能を多少は認めて自分を愛してくれた先生も全然無いではなかつた。三人の国語漢文の教師のうち二人はこの地方の出身で、小学校教員から中等学校教師の資格をとつた人であつたが、この人々は自分を鞭撻しながら自分を十分に教へてくれた。もうひとりこれも大下藤次郎氏の講習会か何かから出て検定試験で資格を獲つた図画の先生が自分を美術学校入学を志望してゐるとでも思ひ込んでゐたと見えて四年級以後自分のために週に一回特別に時間を割いて石膏のデツサンなどを教へてくれた。自分がおぼつかないながらも国文や漢文を独習したり、また低いながらも絵画の常識を持つてゐるのはみな中学時代のこれらの先生方の賜である。国漢の方の両先生はもう亡き人となられた。」(昭和23年8月刊「青春期の自画像」・昭和21年7月の「わが芸術彷徨」改稿)と言うように、春夫の味方になって庇ってくれた教員も居たのです。

辻本雄一

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