館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」67

ストライキ事件の余波と「大逆事件」前夜
治43年の年が明け、春夫が卒業までの数日をどのように過ごしたのかははっきりとは分かりません。ただ、「会誌」7号(明治44年3月)の巻頭に載っている卒業記念写真には写っています。それより先の「会誌」6号(明治43年3月)に発表された「若き鷲の子」の詩は、末尾に「明治四二年一二月九日稿」とあって、孤独な心境を象徴的に語っていました。また、同誌には、2月9日に行われた野外発火演習の模様が記されていますが、副官を務め西軍記を書いているのは春夫です。

3月21日には第5回卒業式が挙行され、春夫も出席したものと思われます。記念撮影の最後列に写っているからです。学校日誌が記す内容は、以下の通り。

「三月二一日 第五回卒業証書授与式挙行 川上県知事臨場 証書受領者田村富太郎以下四十二名(注・実際は32名で、誤記か)中筋義一、川村淳一、宮本宰次郎の三人に賞状を与へ徳川侯爵より寄贈の銀時計を中筋義一に与ふ 式後記念撮影をなし午後在校生主催の送別会あり」さらに、「三月二九日 入学試験を行ふ 志願者百〇七名の内八十九名合格  三月三〇日 明治四十三年度入学式挙行」と続きます。

この卒業式に川上知事が臨席しているのも、ある意味が隠されているのかも知れません。伊沢知事が愛媛県に転任し、富山県知事であった川上親晴が赴任してくるのは明治42年7月末。川上知事が和歌山県で目指したのは、思想弾圧と神社合祀の積極的な推進でした。沖野岩三郎は書いています―「時の和歌山県知事は蛮勇で有名な川上親晴君で、嘗て警視庁在職中、社会主義者の鎮圧係とでも云ふべき方面を受持つてゐただけに、今は良二千石の位にゐるが、昔取つた杵柄の腕がめりめり鳴るので、わざわざ熊野の浦まで出張して警官を指揮督励して、徹底的に主義者の一掃を期した。」(「爆弾のありか」・昭和9年刊「話題手帳」所収)。そういえば、川上知事は半年にも満たない前年の11月10日にも「導流堤」完工竣工式に参列しています。ちょうど新宮中学ストライキで町が騒然としている時期に重なります。「導流堤」工事とは、熊野川河口が熊野灘の砂州が堆積され、河口の船の出入りを困難にし、再三実行されたもので、いわゆるこの時期の大型公共工事です。遠隔の地に知事が再三出張するのは、異例のことです。結果的には、大型船の入港は新宮の池田港ではかなわず、隣の三輪崎港に移ってゆくのです。

また、川上知事は、この年明治43年年頭に、「同町には(注・新宮町)社会主義を抱いているものがある。是等が学生に感化を与へるといふ事は頗る危険な事である。大石某はこの社会主義を抱いてるもので」「我が建国の基」と離反している社会主義を「容るヽ事は断じて出来ないのである」と、新宮中学ストライキ事件に関して、大石誠之助の名まで特定して批判した談話を発表しています(「川上知事と新中問題」・「牟婁新報」明治43年1月6日付・「和歌山実業新聞」からの引用として掲載)。

春夫は、「卒業記念の寄せ書きにわたくしは「悠々自適」と書いた。」(「私の履歴書」・昭和31年7月「日本経済新聞」)とも述べて、卒業に言及しています。

その第5回卒業式でひとつの事件が起きたのだと言います。「牟婁新報」明治43年3月27日付に、「卒業式場の椿事、新宮中学校長の失態、優等生の卒倒」の記事が出ています。

 新宮中学では、首席優等の卒業生に徳川侯爵家より寄贈の「銀側懐中時計」を、卒業式で贈るのが恒例になっていました。この年はTが受けることになっており、いったん呼名されながら、寺内校長は「お前ではない」と言って、2席であったNに授与しました。Tは恥辱のあまりその場に卒倒した、と言う事件で、Tはストライキの際に休学者に同情的であったためであろう、と同紙は伝えています。さらに同紙は、3月30日付に南方熊楠の談話を載せ、「大に寺内校長の暴状を怒り、先生(引用者注・南方熊楠)は在英中より徳川侯と懇意なるを以て、寺内の行動を同侯に報知し、校長に相当な制裁を加へ、併せて優等生Tの為め同侯より別に賞品を贈与さるヽやう取計らふ所存」を語っています。実現したのかどうかは分かりませんが、この事件もストライキの余波と言うことができます。春夫の回想文ではまったく語られたことはありません。完全に亡失してしまっていたのか、この問題が事後に問題化して、春夫の情報網にかからなかったからなのか。

しかしながら、事後と言えば、新宮中学ストライキに関してひとりの犠牲者を出していることは知り得たらしく、「青春期の自画像」で触れられています。前田粂次の悲劇です。春夫は、「中学校の放火犯人はやはり社会主義の一味の者らしいといふ取沙汰であつたが、遂に検挙されるに到らなかつたが、事件の後一年ばかり経つて同級の学生が二人、取調べのために田辺の地方裁判所から召喚を受けて帰る途中海上で暴風に遇つて魚腹に葬られたといふ話を後に聞いた。」と述べています。

春夫はここでもストライキや出火事件と「社会主義の一味」とを短絡的に捉え過ぎています。
これも正確を期してみれば、明治43年度の新しい学年が始まった4月15日、地方裁判所田辺支部の予審判事平田次郎が新宮町に入り、寄宿舎舎監鈴木教諭宅他数か所を家宅捜索、5年生中井寿一の初野地の下宿先もその1つで、中井は学校から帰宅するとすぐに拘引されて行ったと言います。さらに用務員間宮亀吉、この年の卒業生で舎生室長であった大井俊太郎が相次いで拘引され田辺検事局へ護送されて行きました。中井は東牟婁郡七川村、大井は同郡高池町(いずれも現古座川町)の出身で寄宿舎生でした。出火前3時間ばかり外出していたので疑われたのです。連累者の職員生徒数名が近く検挙されるだろうと言う噂が、町の人々の間に人心恟々とした空気を呼び込んでいました。同盟休校中休職命令を受け転任していた原田岩平もまた、遠く長崎から召喚され田辺で取り調べを受けたということです。

 小野日記は記しています。―「昨秋中学校火災事件に関し舎監舎生一同交互警察署に喚ばれ種々取調べを受けらるるももとより何等不審の廉なるべき筈もなく無論それにて真相明白を表すこととおもひ居りしに、警察署長の更迭と共に更始審糺するところとなれるか、警察の方に於ての手続は意想の外の方に向ひ進捗なしつつなりしものなるか、今日当時当日の舎生室長当番なりし大井俊太郎生中井寿一生の二人を嫌疑者として拘引せられし由気の毒とも可愛想とも言はん様ならず」

結果的には、嫌疑者として拘引された3名は無実で釈放されるのですが、その過程で起きたのが前田粂次の悲劇です。前田もこの年の卒業生、七川村の出身で、前田は証人として田辺に召喚されたのでしたが、前田の証言が3名の無実につながったのかどうかは分かりません。

前田はその帰途、5月10日、大阪商船和歌山丸に乗船、付き添いの叔父浦佐助、新宮警察署の桃田芳楠巡査も同伴でした。ところが、周参見沖で暴風雨と濃霧とによって遭難、乗客船員ら64名が海底の藻屑となったのです。その中に、前田粂治と同伴の2人も含まれていました。小野芳彦は日記(5月14日)に「誠に驚悼の極みにて気の毒といはんも愚の限りなり。」と記し、卒業に際し「コレカラ専心一意実業に従事いたすつもりでございます。殖林いたすつもりでございます」と述べた前田の口吻を伝えています。享年僅か19歳、「紀伊毎日新聞」(6月8日付)は「証人に出て災難、弔慰金募集」の記事が出ていて、「学生間の同情頗る切実なるものあり、弔慰金を送らんと目下勧誘中といふ」とも見えています。

和歌山丸遭難後の5月20日、中井寿一、大井俊太郎、間宮亀吉の3名に対する予審は、いずれも証拠不十分で免訴になります。火災事件も原因不明なまま6月には特別教室が改築なっています。新宮での、いわゆる「大逆事件」の捜索が始まるのは、それから間もなくの6月3日が端緒です。町民の多くは、もちろん「事の重大さ」を知る由もなく、単に同盟休校や火災事件の余燼と捉えるのが精いっぱいであっただろうと想像されます。

辻本雄一

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