館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」66

「若き鷲の子」の詩の解釈と「危機」からの脱出
中学卒業直前の春夫の動向に戻ります。春夫は書いています。―「中学五年の時に、与謝野寛氏と、生田長江氏と、石井柏亭氏との三人が、東京から私の故郷の紀州新宮の町に来て、町の劇場で演説会を開いた事があつた。その時私はその中に交つて、演説をした。それは「父と子」の中のパザロフのやうな感情を述べたものであつた。今考へて見ると、恥しいやうな、浅薄な事だが、その中の言葉や思想が過激だといふので、学校から無期停学を命ぜられた。」(「恋、野心、芸術」・大正8年2月「文章倶楽部」)

1862年ロシアの作家ツルゲーネフによって発表された長編小説「父と子」は、「ニヒリスト」という言葉がこの作品から広まったとも言われるほどで、若者にも多大な影響を与えました。その典型の登場人物がバザロフです。春夫もこの作品に感化されたことは、既に述べた通り本人も言及していますが、作品の中で、もう1人の登場人物はアルカージー、その父が兄に対して言う科白(つまりアルカージーからすれば伯父)の中に、兄さんは眼付からして鷲みたいな眼をしている、と言う個所があります。「鷲の目」は、鋭く先を洞察する力がある、と言うのです。

「十二月九日夜稿」と付記された春夫の詩「若き鷲の子」は、そんな「鷲の目」を想像させる作品であるし、春夫自身も十分に意識した題名でもあったでしょう。新宮中学の機関誌の「会誌」6号(明治43年3月)に発表されているのも、ある意味、学校への対抗意識も十分に窺え、この頃の春夫の心情が比喩的に凝縮されたものになっています。「若き鷲」に自己を仮託して、孤独な調子(トーン)が全面に描出されているものの、その裏には将来への自信を漲らせていて、時に強い気負いすら伝わってきます。この気負いこそ、反骨の精神を培ってゆく土壌ともなりうるもので、春夫が精神的な危機を乗り越えたことの証(あかし)とも言えるものです。

そんなか父豊太郎は北海道から帰ってくるのは、年も押し詰まった12月のことです。

さて、6章から成る作品で、1章では「父は何処にか行きけん、母は何処にか去りけん。下界に近く、海近く、巌の上に鷲の子は置かれたり、しばし翼を養へと情篤き親のこころなめり。」で始まり、父母に置きさられた「巌(いはほ)の上」の「鷲の子」が描かれる。「若き鷲の子は天上を夢みぬ、然して飛び去らんとしぬ。然も渠(かれ)が翼はあまりに弱くありき。」と結ばれます。

2章では、「巌近く」飛んで来るのは、「あはれむべき烏、鳶(とび)の輩(やから)」だけで、ともに「天上界を語るべき友」ではない。若い鷲は「ほこるべき孤独」のなかに居ます。3章では、「幾星霜を経」て、「若き鷲の子は甚しく肥(こ)えたり」と言います。そこには自信も生まれてきた気配です。「敏き烏と鳶(とび)と」は、若き鷲の傲慢と無為とを嗤(わら)いながら、「若き王子よ、臣等とともにかけり給はずや。」と誘いかけますが、若き鷲は「ただ、黙然として巌頭に立てるのみ。」で、孤高を守っています。

以下4章では、春夫自身の講演会登壇とそれによる無期停学処分とが投影され、仮託されています。「今ぞ、わが時來る」という得意満面の叫びは、たちまち「嵐」に襲われます。5章では、「幾日かの後嵐は凪ぎぬ。/烏と鳶とはかの傲慢なる友が嵐の為めに敗れたる姿を嘲らんとして巌頭を訪」ねますが、そこに若き鷲の姿はなく、鳶と烏は、「呵々」と嘲笑しながら「憐れむべし、傲慢なるものの末路を、水底にありて今にして、彼は何を学びけん、」と、「若き鷲」の末路を推測するのです。しかしながら、「焉(いづくん)知らむ、若き鷲は、今や日輪のかたへにありて小さきものの愚なる勝利をあはれめりとは」とあって、そこには艱難を梃子(てこ)にして、世間の冷徹な眼差しや態度を乗り超えて、次への飛躍を期する春夫の態度が見て取れます。だから、6章の「友よ、わが友よ。若き鷲の子の象徴(シンボル)を問ふ勿れ / われ自らも知らざる也。」の結びの、客観視する余裕も生れています。「日輪のかたへ」にある「若き鷲」の姿を対象化し得たとき、作者春夫はひとつの危機を確実に乗り超えて、明治43年という年を迎えたのだと言えるのです。

ところで、この「若き鷲の子」の詩を、ニーチェの「ツアラトウストラ」からの影響を指摘して、詳細に分析しているのは、山中千春の『佐藤春夫と大逆事件』(2016年6月刊)という著書の第1章「大逆事件の衝撃」の第3節「精神的危機からの脱却」の項です。
生田長江訳の、ニーチェの「ツアラトウストラ」が新潮社から刊行されるのは、明治44年1月末のことで、「大逆事件」で幸徳秋水らへの判決が下り、直後に刑が執行されたのと相前後する頃です。翻訳途中の長江の口から、春夫はその内容を聴き取り、内容を咀嚼する間は十分にあったのです。確かに春夫の詩句の中にある語句、「陥没/没落」「日輪」「海底」などのイメージなども、ニーチェから学んだのではないか、と推測されます。

「ふるさとのあらき高峯(たかね)の巌(いは)にふし鷲の子などとわらひてあらむ」(明治43年3月「帝国文学」)という和歌が生まれているのも、ある意味では「ことば」を与えられることによって自身を客観化しえて、危機を乗り超えたとも言えるのです。

さらに、上京後、「人間よ、/ われら一同が手にもてる、/ またこころにもてる、/ 時計や書物や大学の如き、/ または衣服をも杯をも、/ あらゆるものを海底に投げ捨てよ。」と叫び、「人間よ、/ いざ疾く悪しき眠りより醒めよ。/ すべての無花果の葉を捨てて / われら一同先づ獣に学ぶに若(し)かず。」と言い、「人間よ、/ 日輪の如き放縦と単純とは / われら一同これを獣に学ぶべきなり。」と続けます。「蓋し創生記に云ふごとく / われら一同は祖先の出来心のために / 獣なるを得ずして斯く人間に堕ちしを思へ。」と結ばれます。まさに「詩」と題されたこの作品には、「「ツァラストラ」及び「トルストイ語録」の訳者に感謝す」との付言を添えられていて、「スバル」の明治45年6月号に発表されています。以後、この作品はどの詩集にも収められることはなかったのです。

明治43年2月から新宮で月刊で刊行され、「大逆事件」検挙のために5号までで挫折せざるをえなかった「サンセット」に、春夫が参加した気配がないのは、すでに意識が中央への雄飛の野望のために東京に飛んでいたことと、地元識者への不満、不信、故郷への違和によるものであろうと思われます。

編集人は沖野岩三郎、発行印刷人は沖野の妻ハルで、新聞型雑誌全8ページ仕立て、8ページ目は全面広告です。その2号は確認されていません。発行・印刷人を沖野ハルにしたのは、発禁などの災禍を少しでも回避する為であったと言います。

西村伊作が1面に絵を描き、東京から与謝野寛や、小川未明、木下尚江なども寄稿しています。地元からは沖野のほか、大石誠之助の翻訳や成江醒庵、和貝夕潮、鈴木夕雨など、中野緑葉や下村愁人(悦夫)の名も見えます。沖野のと思われる「聖書講義」や、箴言等の引用など、キリスト教色も濃厚に窺えます。

大石誠之助らの社会主義思想に共鳴し、誠之助の翻訳なども手伝いながら、小学校の訓導を務めていた玉置真吉は、新宮の町を歩いていると、よく「やあ、バザロフ」と呼びかけられたと言います(真吉の自伝「猪突人生」)。ニヒリスト気取りが窺われたのでしょう。「サンセット」4号(5月)掲載の「炬燵閑話・罵座魯夫(注・バザロフ)」は真吉の筆でしょう。老人に托して「現実」とか「無理想」とかが持てはやされている小説界を揶揄する内容です。また、3号(4月)の「罵公独語」や「座公放言」なども真吉の筆と推測されます。そこで、「僕は耶蘇教も好きだ、アナキズムも好きだ、僕は現代不満だから苟も現代不満を懐く者は皆我兄弟我骨肉だと思ふ」とも述べています。真吉は「大逆事件」の犠牲者として教職を追われ、やがて我が国の社交ダンスの草分けの1人となってゆくのです。

新宮の町で「やあ、バザロフ」と呼びかけるのが春夫であったとしても何らおかしくはないのですが、大石誠之助と沖野岩三郎とによって刊行されていたとされる「サンセット」には、春夫は思想的な隔たりと感性的に相容れないものを感知していたのかも知れません。
春夫はまた、「さはれはたろうまゆだやの鼻ならず鷲のくちばしのなれのはてなる」(明治43年11月「スバル」)という和歌も詠んでいます。

辻本雄一

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です