館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」64

生田春月との関係 (一)
先に紹介した、罫紙12枚に記された、仮称「生田長江 紀州旅行日記」と言われるものは、長江が京都から東京に帰る東海道線の車中で、鳥取の淀江で篭居している春月の下へ激励の書簡と共に、届けられたものです。熊野滞在中に送られた長江から春月宛て書簡の一節に、行動を共にしてきた与謝野寛への辛辣な批判が記されています。

「与謝野寛君は悪人ではない、いやな男である。晶子女子の小説が拙いのも故あるかなと思ふ。一葉女史ならば、どんなことがあつてもあんな男に惚れはすまいと思ふ。」とあります。「わざわざ女に惚れられやうとして懸命に努力をするのは森田米松君だ。惚れられるやうな人格を作つて置かうとするのは生田長江だと、こんな自惚は君の前で丈け言はして貰ふ。何物をも恐れぬー是が僕の根本道徳である。之を艶つぽく翻訳すれば、男にも女にも惚れられるやうな人格を作ることになる。」と続き、「人格を作り玉へ、惚れられるやうな人格を作り玉へ。」と激励しています。森田米松とは、学生時代からの友、森田草平のこと。草平は漱石の知遇をえていましたが、明治41年3月、教え子の平塚らいてふと塩原情死未遂事件のスキャンダルを起し、世間の厳しい非難を浴びました。その顛末を小説に書いたのが「煤煙」で、漱石の力添えで明治42年元日から「東京朝日新聞」に連載されました。草平を新進作家の位置に引き上げたのです。

生田春月にも、この年9月から10月にかけての「淀江日記」と称するものが残されています。
この紀州熊野行の折は、与謝野寛にしろ、生田長江にしろ、悩ましき女性問題を抱えていました。長江の女性問題については弟子の春月も知悉しており、だからこその言葉が日記や書簡からは窺い知れます。

この日記の所在は、春夫生前の時期から知られていて、春夫もそれを眼にした可能性について、先に解題を紹介した曽根博義は指摘しています。春夫の急逝が、自身の回想の間違いを訂正する機を失わせたのではないか、と推測しています。

さて、明治43年11月、新宮中学のストライキを尻目に上京した春夫でしたが、春夫を上野の美術館などに案内した、同年生まれの生田春月も、ほぼ同じ頃に再上京したばかりで、長江宅に住みました。

 

生田春月(1892-1930) 昭和5年7月刊『文学時代』生田春月追悼号より転載

そうして、新宮中学を卒業して再上京した春夫は、明治43年4月4日から10日間ほど長江宅に滞在、その後本郷区駒込千駄木町36の轟方に下宿しています。森鷗外の居宅「観潮楼」の前で、深夜まで明かりが灯っている鷗外の書斎を仰ぎ見たのです。9月頃には、本郷区湯島新花町54の本郷座の座方吉澤真次郎方(「会報」第3号、ちなみに奥栄一は早稲田大学在学で、牛込区市ケ谷山伏町18番鳥居春之助方)に、新宮中学の同級生で歯科医を目指していた東凞市(ひがしきいち)と共に下宿しています。東は南牟婁郡尾呂志村(現御浜町)の出身、やがて傷心の春夫を台湾に誘うことで、春夫再出発のきっかけを作り、春夫にとっては筆舌尽くしがたい恩人となるのです。なお、「会誌」6号(大正2年12月)によれば、この時、佐藤春夫は、牛込区矢来町3中ノ丸乙ノ50、7回卒業の弟夏樹も上京してきて受験準備中で、それより先に独協中学に通っていた弟秋雄共々居住し、母親や叔母が交々上京して、面倒を見ていました。ちなみに、奥栄一は「小石川区上宮坂23君が代館」に、東凞市は「本郷区壹町36美芳館」に転居しています。また、同「会誌」には、消息欄に「十月十三日」として、春夫の文章が掲載されていますー「けふこのごろ何をなせる / と人のとひければ / ただ見れば何の苦もなき水鳥の / 足にひまなく遊びをるなり」。

最近、この頃の夏樹と秋雄との日録が発見されて、そこには「兄貴」の交友たちについても描かれており、この頃の春夫の動向を知る貴重な資料として、今後読み解きが成されてゆくでしょう。

それより前、明治44年6月頃、長江の依頼で、転居することになった長江の居宅に同居することにし、それは本郷区根津西須賀町2のドイツの古城のような家で2階10畳の住人となりました。春月も2階の別の間に同居、長江は翻訳中のニーチェにちなんで春夫や春月の同意をえて、「超人社」の看板を表札替わりに掲げ、やがては梁山泊のようになってゆくのです。「わたくしは弟たちが来て牛込に住むまでは、おもに本郷界隈や超人社に住んで、ここから三田に通った。そうして三田で学ぶよりも、新詩社や超人社で師友から学ぶところの方が多かった。」(「詩文半世紀」)と、春夫は語っています。ジャーナリストをはじめ、有象無象の人が出入りし、後に「地上」で一世を風靡した島田清次郎、「根津権現裏」を書いた藤沢清造、尾崎士郎や大宅壮一の名が上げられています。超人社には江南文三(明治45年6月頃)、青鞜社の尾竹紅吉(一枝)も同居してきます(10月)。春夫は紅吉の妹「ふくみ」を知り、「プラトニック」な愛を捧げ、「心身甚だしく悩めり。慢性の不眠症に罹る」ことに繋がってゆくのです。

春月は明治25年3月鳥取、米子の生まれ、実家の酒屋が破産した後、朝鮮半島に渡ったりして多難な道を歩んだ後、17歳で上京して、同郷の先輩で評論家の生田長江の書生として創作活動を開始したのは、明治41年6月。

新宮中学を卒業して、再度上京してまだ宿舎もない春夫と10日ほど同居し、更に「超人社」では2年余、起居を共にしたのです。

辻本雄一

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