館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」63

春夫不在の新宮中学ストライキ
2教諭が生徒の同盟休校を煽動したという廉(かど)で実質退任に追い込まれていますが、表立った動きは何もないようですから、体よく馘首の憂き目にあったと解すべきでしょう。物理学担当の原田岩平と修身担当の神門(ごうど)兵衛門とで、突然の休職辞令に小野芳彦も「日記」に驚きを記し、生徒の信頼殊に厚く、涙ながらに港まで見送ったことを記しています。5年生担当の原田は佐賀市の私立学校へ転職ということであったようですが、4年生担当の神門のその後は分かりません。今日残る「新宮中学教職員履歴書綴」には、ふたりの個所には朱書きで「一一月二日休職を命ず」と書かれているだけ、遡っての辞令になっています。

ところで、神門兵衛門の寄宿先は、下本町7694番地佐藤豊太郎方になっています。明治41年11月、早稲田大学哲学科を卒業して修身科教諭心得として赴任、まもなく教諭になっています。明治16年福井県の生まれで、父豊太郎が不在がちな中で、春夫の兄貴格であったように思われます。和貝夕潮が「鼻の人佐藤春夫氏」(「熊野誌」12号・昭和40年11月)のなかで言及しています。

「氏自身(注・春夫のこと)中央文壇進出の野望を抱きはじめたのは、三年生の後期かららしく、四年生になった春、早稲田大学文科を出た神門兵右衛門という先生が赴任して、いろいろ文学の話を聞くようになってから、佐藤生徒の天分は鋭どい光を放ち出したようである。/神門先生は北陸の出身で、私も親しく交際した人であるが、かつて湘南の海に投身、失神しているところを救助され、蘇生した経験の持主であった。佐藤生徒はある夜先生の下宿先で、その時の話から生死の瞬間に於ける感想などを聞いて以来、神門先生に対する憧憬は寧ろ信仰的なものに発展し、その影響は作品の上にも顕現されるに至った。/神門先生は赴任後短期間で職を辞し、失意の胸を抱いて北陸に去ったが、佐藤氏の中央文壇進出の希望を決定づけたのは、日を経て実現した与謝野鉄幹氏の熊野再遊の実現であった。」

和貝はそのあと、「はまゆふ」編集に協力してもらったことを述べ、「はまゆふ」に佐藤潮鳴の筆名で発表された、2編の詩「馬車」と「食堂」を引用しています。「潮鳴」の筆号は、木ノ本から新宮にかけての七里御浜の潮騒から名づけられたものでした。その松原に並行して馬車が走って砂煙を上げていました。春夫は、「潮鳴」の号が、「岩野泡鳴」から取ったもので無いことを釈明しています。

与謝野寛の熊野再遊は神門がまだ滞在中のころで、講演会の聴衆のひとりであった可能性もあります。和貝の記憶には、不正確なところもあります。神門の下宿先が佐藤豊太郎方になるのも当初からではなかったのかも知れませんが、神門教諭から受けた文学的な影響等については、春夫の後年の文章には全く触れられたことはありません。

神門が大石誠之助らと接触していた資料も皆無に等しいのですが、ただ明治43年2月12日、沖野岩三郎の教会で会衆20名余で「ダーヰン百年祭」が催された時、沖野や成江醒庵、大石誠之助らに交じって、登壇しています(「熊野実業新聞」明治42年2月14日付)。また、明治42年3月刊の「会誌」5号(明治42年3月)の巻頭論説には「正直と馬鹿正直」を書いていて、「・・・正直と馬鹿正直との分界点、相違点は、万に一の特別異時の際に、健全なる人格良心の判断に訴ふるか否かの点に有りと云ふのが、此の研究の成果である」と結んでいます。正義感の面目躍如の感があり、中学生のストライキに関しても生徒を煽動したとまではいかないものの、生徒の立場を充分に理解することは出来たでしょう。4年生生徒の王子ケ浜(大浜)での決起集合を留められなかったという「責任追及」であったのかも知れません。

さらに、このストライキが「潜伏中の社会主義者」(「青春期の自画像」)や、「大石誠之助氏方に来てゐた若い社会主義者が画策しアジって起させた同盟休校」とか、「学校騒動の張本人」(「詩文半世紀」)などと、春夫が記述していたり、沖野岩三郎の作品にもそれに類した表記が見られることについては、森永英三郎が「禄亭大石誠之助」の中でその不正確さと偏見とを指摘しています。名指しされているわけではないのですが、明らかにこれは「大逆事件」で刑死した新村忠雄を指しているわけで、この「若い社会主義者」新村が新宮を離れるのは、この年8月20日、22日には東京に帰り着いています。そうして、21日は与謝野寛らの講演会で、春夫の飛び入り演説が成された日だったのです。

成石平四郎らがストライキに際して学校側批判のビラを撒いたり、高木顕明の寺浄泉寺が集会の場になったりした形跡はあるものの、新村忠雄がストライキに関与する余地はまったくありませんでした。
新宮中学のストライキ期間中、春夫は上京中でした。

11月4日に同盟休校が勃発したとき春夫は5年生ですが、すでに停学処分は解かれていました。生田長江を頼って上京したのがいつかは今のところ正確に把握できていませんが、おそらく11月に入ってすぐの頃で、東京の「萬朝報」が11月6日付で新宮中学の同盟休校を報道したようですから、春夫は東京で目にしたと思われます。また、後日の「萬朝報」の新宮中学の火災についての記事も目にしたという回想がありますから、この頃までは東京に居たと言うことが言えます。東京・千駄木林町の長江宅です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会誌・神門文

「退学」の決意をしていた春夫にとっては、おそらく復学の意志はなく、同じ年生まれの生田春月と親しく交際して時を過ごしたようです。春月は17歳で上京して長江の書生になったものの、養子先の質屋を継ぐことになって明治41年6月にいったん帰省、しかしながら文学や上京への想い断ちがたく、絶えず師の生田長江に相談、翌年ようやく再度上京の決意をして11月3日に故郷を立っています。春夫の上京とほぼ相前後していたことになります。

「詩文半世紀」によれば、「この間の在京は一週間にも足りなかつたが、春月の案内によつて上野の美術展覧会を見物して、たしか青木繁の「海の幸」や菱田春草の「黒猫」など評判の名作を見たし、通勤のため白山下の電車停留所までを馬で行く鷗外の馬上のうしろ姿を見ることもできたし、また紅梅町の新詩社を訪うて先生だけではなく、晶子夫人にも謁することができた。」と言います。

上京に際しても、一度は母に内緒で上京を企て、近隣の三輪崎港からではなく、欺いたつもりの木ノ本港からの渡航の計画も、その行く手を阻まれた経緯もあり、ようやく母の納得を得て実現したものであっただけに、火災事件という緊急事態の勃発は、母の要求には屈するほかはなかったのでしょう。同盟休校が終息したばかりの11月15日夜に発した新宮中学での失火事件、特別教室の消失です。放火ではないかの疑いが、ストライキ騒ぎの余波がさめやらぬ中で、町民の間で「噂」として広がっていったようです。そんななかで、とりあえずは帰って来いと言う母の懇願に抗し切れなかったのでしょう。生田長江も、とりあえず来春、一応中学校は卒業してから、という説得も効を奏したものと見えます。

春夫は書いています。―「その無期停学中に、学校で同盟休校が始まつて、私がその煽動者として見做された。私はその時学校をやめるつもりで上京して、一週間ほど生田長江氏の家に居た。其処で或日の「万朝報」を見ると、私のゐる中学校へ放火した者があつて、特別教室の一棟が焼失したといふこと事が出てゐた。さういふ事件の為めに又国へ呼び帰された。やがてその同盟休校の事件が落着すると、私は無期停学を赦されて復校した。それは多分生徒間に一種の勢力をもつてゐる風に、学校経営者から考へられたので、政策の為めであつたかも知れない。」(「恋、野心、芸術」・大正8年2月「文章倶楽部」)

春夫は他の諸作品でも、無期停学中に同盟休校が勃発したように記述されていますが、「小野日記」によれば、それ以前に停学は解除されていました。そうして、「放火事件」として記述していることも多いのですが、結果的には「原因不明」で収束しています。そこには、ひとりの生徒の悲劇がまつわりついてくることは、後述します。また、この同盟休校の発端は4年生が主導したのであって、春夫はこの時5年生でした。ただ、校長が保護者への説明で、中学生の不穏な会での登壇事件が、そのきっかけであるような発言はあったようです。

すでに復学は認められていたものの、それを振り切って、文学者として立つと決意して上京した春夫でしたが、父親不在のなか、正式な届け出が成されていなかった状況で、呼び戻されてからも学校行きを渋った模様です。沖野岩三郎らも説得に当たった節もあります。春夫は新宮での文学環境にも嫌気がさしてきていたのです。あるいはそれ以上に、青雲の志がふつふつとたぎってきていたとも言えるのかも知れません。

辻本雄一

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です