館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」61

与謝野寛の作品掲載(二)
寛にとっては、明治43年3月に、初めての単独の歌集と言える『相聞(あいぎこえ)』という歌集が刊行されるのですが、研究家の逸見久美(いつみくみ)が『評伝与謝野鉄幹晶子』という大著のなかで、「寛の憔悴(しょうすい)と妻晶子の尽力」がこの歌集を生み出したと述べています。

さらに「この歌集には寛の生命をとり戻そうとした晶子の悲願と深い愛情がこめられていた」と評価しています。この歌集の編集はおそらく晶子が行ったのだろうと言われています。その次の年、44年には寛は念願のヨーロッパへ渡ってゆきます。「大逆事件」後のことになります。夫をフランスに行かせるための妻晶子の努力は、並大抵でないものがあり、和歌を認めた屏風を多く手掛けて販売し、渡欧の経費の一部に充当したのです。遅れて晶子も子どもらを残して後追い渡欧、夫と子どもらへの未練に引き裂かれる日々を過ごすことになります。

『相聞』には、「明星」集成の感があって、明治35年以降の和歌約千首が収められています。その最後、巻末に「伊藤博文(いとうひろぶみ)郷を悼む歌」というのが、16首載っています。「相聞」の評価は、一般的にあまり高くはなかったようですが、ただ「熊野の歌」も含まれていることもあって、熊野の地では関心は高かったと見え、「サンセット」5号(明治43年6月)で、禄亭(ろくてい・大石誠之助)や沖野岩三郎などが、感想を書いています。新聞型雑誌と言っていい「サンセット」については、いずれ後述しますが、寛もこの「サンセット」にも和歌を載せています。なかに、「白き犬行路病者のわきばらにさしこみ来り死ぬを見守る」「巡査らが社会主義者の紅旗(あかはた)を奪ひをはりて夕立きたる」「泣きながら妻と我が子の海を見る幻覚かなし青き夕ぐれ」などがあります。「大逆事件」の契機となった「赤旗事件」の模様を歌い、離婚の危機を歌っているのでしょう。「サンセット」では、「はまゆふ」のように、寛の和歌を特別扱いするようなことはしていません。

実はこの『相聞』という歌集をいちばん最初に評価したのは、歌人で民俗学者の釈超空(しゃくちょうくう)、折口信夫(おりくちしのぶ)で、大正時代にこれをかなり高く評価しています。それ以後、『相聞』を評価する人でも、なぜ伊藤博文の追悼の歌が最後に出ているのだろうか分からないというのが、いままで一般的解釈でした。しかしながら、「熊野実業新聞」に伊藤博文を追悼する文章を発表している寛としてみれば、その文章の中に書かれている博文と鉄幹(寛)との関係からすれば、個人的な繋がりというものを十分に理解したならば、そんなに不自然なことでも何でもない、本当に心を込めて伊藤博文を悼んでいるということが言えます。

伊藤博文が暗殺されて、11月4日に国葬が行われたその日に、10何首の和歌を一気に詠んだ人がまだ居ます。それは石川啄木(いしかわたくぼく)で、啄木も非常な衝撃を受ける。鉄幹と啄木とは、ある意味では師と弟子、作風などでは随分と違う。鉄幹と啄木、伊藤博文の死というものに影響を受けて、追悼の歌を詠みますが、その後お互いの思想的な意味とかを考えると、1、2年のうちにかなりの距離になってゆくと言えます。それが石川啄木への「大逆事件」の影響と言うことになるのですが、しかしこれは「大逆事件」が起こる前の話です。啄木も伊藤博文の暗殺事件にショックを受けて幾つかの歌を即座に作っています。啄木の著名な歌に「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」というのがあります。また、「誰そ我にピストルにても撃てよかし伊藤の如く死にて見せなむ」と言うのもあります。

韓国併合がすぐに始まる。伊藤博文はむしろ韓国併合には消極的であったらしい。伊藤博文というと、内閣総理大臣を4度歴任したあと、初代の韓国統監を務めるのですが、韓国併合の張本人のように見られがちですが、そうではない面もあり、渋々にしろ韓国併合を推進せざるを得なかった事情もあるようです。同じ長州でありながら、桂太郎・山県有朋の世代とに確執めいたものを抱えてもいたようです。

新宮の町に話を戻すと、既に述べたように、明治42年の夏8月に与謝野寛らがやって来て、佐藤春夫もそこで飛び入り演説をする、新宮中学から無期停学処分を言い渡される、新宮中学で一大ストライキが起こる、そしてストライキがようやく収拾したかなと思われる時期に、校舎が火災を起こす、年が明けて43年になって、6月頃から「大逆事件」が熊野の地に飛び火して大石誠之助らが逮捕されてゆく、新宮の町は騒然とした中で展開していくことになるのです。

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