館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」60

与謝野寛の作品掲載(一)
春夫が停学中、いくつかの作品を無著名で「熊野実業新聞」に投稿、掲載されていたであろうことを述べてきましたが、この頃、同紙に盛んに作品を発表しているのは、夏に再来遊した鉄幹・与謝野寛です。そうして、和貝夕潮が同紙の記者で、文化面の編集を担っていたことも、これらの作品が集中的に掲載された理由でもあろうかと思われます。

しばらく、与謝野寛の作品に関して記述してゆきます。8月に寛が再び熊野にやってきて、熊野、新宮の人々との繋がりもさらに深まりました。

ここに引用する「薄暮(はくぼ)」という詩は、講演会登壇前の状況を読んだものです。新宮でのお盆過ぎの夕暮れの小景というところでしょうか。夏期講座で話す場所としての瑞泉寺(ずいせんじ)、通称大寺(おおてら)が目の前にあります、「法界節(ほうかいぶし)」の連中が通ります、こういった興行集団が、庶民芸能を携えて訪れて来ていたのです、まさに熊野の文化状況の底辺を支えていたと言えるかもしれません。そうして、瑞泉寺での夏期講座の応募状況があまり芳(かんば)しくない、ということで、急遽企てられたのが、すでに述べた新宮中学生佐藤春夫が「飛び入り演説」をして物議を醸(かも)すことになる、近くの新玉座での講演会だったのです。宿所は、元鍛冶町の3階建ての宇治長(うじちょう)旅館です。

この頃の宇治長旅館、3階建て。中瀬古友夫氏提供

 

 

 

 

「     薄暮         与謝野寛
昼寐(ひるい)より覚(さ)めたる後のかい憊(だる)さ。
元鍛冶(もとかじ)町の旅籠屋(はたごや)の
三階の狭(せま)き座敷にただよふは
亜鉛(とたん)の屋根の工場なる石油のにほひ。

伴(つれ)なる絵師(ゑし)のかきさせる
朝の熊野の川口(かわくち)の
いと静かなる油絵(あぶらえ)は
次の広間の床(とこ)の間(ま)の
贋物(にせもの)の景文(けいぶん)の絵(ゑ)にならびたり。

昼寝(ひるね)より覚めたる後のしよざい無(な)さ
伴(つれ)は皆髭(ひげ)を剃(そ)りにや出(い)でにけむ。
むし暑き夕(ゆうべ)なるかな。

団扇(うちわ)をとりて立ち上(あが)り
次の広間の欄(おばしま)に肘(ひじ)して凭(よ)れば、
屋根越しに山の麓(ふもと)の瑞泉寺(ずいせんじ)
土塀(どべ)の中に盂蘭盆(うらぼん)の三筋(みすじ)の旗ぞ
しらしらと亡者(ぼうしや)の如(ごと)く漂(ただよ)へる。

あはれ此時(このとき)直下(すぐした)の町を通(とほ)るは
自暴(やけ)に滅茶(めちや)なるすてばちの
琴かき鳴(なら)す一群(ひとむれ)の法界節(ほうかいぶし)よ、

つんとこ、つんとこ、つんとこ、つんとこ
旅の身の塞(ふさ)がれる痛き愁(うれひ)は
焼酎(さうちう)の甕(かめ)の如くに裂(さ)けて流(なが)るる。  」
(「熊野実業新聞」明治42年8月24日付)

寛の「熊野実業新聞」掲載作品の代表が、伊藤博文追悼の文章、連載3回で掲載されている「藤公(とうこう)の一側面」という文章、藤公というのは伊藤博文のことです。どうも「伊藤公」の「伊」の字を落として印刷してしまったらしい。

寛の伊藤博文追悼の文章などは、これまで誰も取り上げたことはありません。また、「熊野地名への関心」などと言う文章も熊野地名考と言いうる内容です。これなども熊野の地名ということで、独自なもの、夏の来訪を機にそれらのきっかけが生まれたと言えます。

この熊野の地名への関心を述べた文章の中に、神社合祀(じんじゃごうし)に警鐘(けいしょう)を鳴らす内容などもあります。南方熊楠(みなかたくまぐす)が神社合祀に反対したのは有名で、熊楠は田辺で刊行されていた「牟婁(むろ)新報」に次々と反対意見を述べてゆくのですが、寛の警鐘は南方より少しばかり早い時期に当たります。

寛の伊藤追悼、明治42年10月に伊藤博文はハルピン、中国の東北部(旧満州)で、韓国人安重根(アンジュングン)によって暗殺されます。その追悼文を寛は新宮の新聞に発表しているのです。中央で発表されたものの再掲載とも考えてみましたが、どうもそうでもないようです。寛は伊藤博文と顔見知りであったようで、その文章を読むと、何回か一緒に話をしたなどということも出てきます。伊藤博文と与謝野寛との関係などはいままで誰もあまり注目したことはないので、そういう意味でもこれは貴重な文章である、と言えます。

だから寛が明治42年夏に再び熊野にやってきて、熊野の人々とのつながりが一層深まっていった、その年の秋に熊野の新聞にそれらの文章が発表されてゆく、熊野の人々との交信もいくつかあった、証明する手紙なども残っている。当時、新宮中学で教員をしていた小野芳彦(おのよしひこ)に宛てたものなどです。

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