館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」59

春夫の試作、戯曲「寝ざめ」
「脚本・現代劇・「寝ざめ」試作」は、10月20日付・22日付・24日付の3回連載です。「現代劇・試作」がタイトルに付されています。

設定は、「明治四十某年九月初旬」、場所、背景は「東京付近の海岸、茂雄の書斎兼病室、室の一隅に洋風の書物乱雑に置かれたテーブル及び椅子、別にその上に花瓶、花も挿さずすべて室内何等の装飾なし、茂雄男床に横はる、物思へる様」とあります。

母親が登場して、医者の言う通り、薬を飲んで早く身体を治すように哀願します。その時の茂雄の科白、身体は全快するかも知れないが、「然し一度(ひとたび)やぶられたこの僕の心は、誰が、如何(どう)して、癒すことが出来るものか⦅眼あやしく光る⦆⦅独語の如く⦆将に来るべき悲劇を思へ!。⦅この間すべて波の声す⦆」、主人公は精神的にも病んでいて、内的な告白を主とする芝居です。その原因は明かされていません。寝覚めの際の「不安」に囚われています。

舞台一転、真昼の暑い中、茂雄がふと部屋に居なくなって、海辺で煙草をくゆらしています。友人らが駆けつけてきます。やがて、顔色を悪くして、茂雄は倒れます。若い医師も駆けつけます。エンドの科白、ト書きは次の通りー「茂雄:貴様の処女作には「寝ざめ」と云ふ題で⦅苦しげに声聞えず⦆  三郎:うん「寝ざめ」と云ふ題で、岡!それから・・・・?  茂雄:囚(とら)はれまいとつとめて然も得なかつた己の生涯を⦅苦しげにのみ動く⦆ (略) 三郎:⦅悲しげにその意を諒する如く⦆あヽ寝ざめ!  若き医学士:⦅謎でも解くが如く⦆寝ざめ?囚はれまいとしてしかも得なかつた? 強き日光一同をてらす。海光る波の音高し。静かに幕。」

春夫が「戯曲」から出発したとも言えるのは面白い。
後年の春夫には幾つかの戯曲作品もあって、上演されたものもあるようですが、大正10年9月には、「童話戯曲 薔薇(ばら)と真珠((しんじゅ)」を刊行しています。作品の上演はかなわなかったようですが、作家の中村真一郎は、人生そのものの寓話の観を呈し、わが国における反演劇(アンチ・テアトル)の先駆である、と高い評価を与えています。また映画のシナリオを意識した「春風馬提図譜(しゅんぷうばていずふ)」(昭和2年3月「中央公論」)や「黄昏(たそがれ)の殺人」(昭和3年12月「改造」)などもあります。

「脚本・現代劇・「寝ざめ」試作」は、後の「一幕もの」の「暮春挿話(ぼしゅんそうわ)」(大正13年4月「改造」)や、「彼者誰(かはたれ)」(大正14年1月「中央公論」)などに通ずる要素があります。内容の深みなどでは、まだまさに「試作」の域を出ていないようですが。
一方、下村悦夫の「孤独」は、「小説」と記され、他人となじめない性格上の悲劇を主人公に託していて、それでいて他とは違うと言う誇り(プライド)をも内包させた内容の「孤独」です。速玉神社の夜店の賑わいなども描写されています。

 

「寝覚め」が発表された「熊野実業新聞」

 

 

 

さて、春夫の停学期間は、「小野日記」で確認すれば、9月15日から10月22日までです。
春夫にとって、停学は解除されていたとは言え、おそらく心中には復学の意図はなかったはずです。独学で文学の道を目指すという、強い意志での上京であったろうと思われます。

春夫の作品発表は、停学中の身であるから、堂々と名前を名乗るわけにはいきません。作品の署名欄には「▽▲▽」の記号が記されているのみの作品が幾つか散見されます。和貝夕潮が記者であったから、便宜も図ってくれたろう。現存の「熊野実業新聞」を見る限り、これらの作品は「寝ざめ」「転宅」「転任」の3つの作品と和歌8首で、いずれも10月に集中しています。
明治42年10月28日付同紙の「熊野歌壇」欄は、「しぶかき」と題する成江醒庵の和歌6首と、「△▼△」の和歌8首です。(△印が「寝ざめ」とは反対方向になっているのですが)

なかに、「その男その行ひもその歌もふしをなさぬが於もしろきかな」「雑沓のいらいらしきにわが友の神経質が口ぶえをふく」「ある男桃中軒の義士伝を新渡戸の如き口ぶりに説く」「パン屑をかぢり居る間に秋の日のはやうすづきて夕となりぬ」「文学を知らぬやからが新らしき思潮をなみす笑ふべくぞある」などがありますが、当時の春夫の心境を伝えていて、歌いぶりも春夫らしいと納得できます。

10月中と言うのも、和貝夕潮の「熊野実業新聞」社在任中と深く係わっていたはずです。和貝が、同社の入社するのは1月8日(同日付「入社の辞」)、11月10日付に「秋風吟」と題する退社の辞、「夕潮兄を送る」という同僚記者達の文が出ています。夕潮が与謝野寛の再訪に尽力し、同社が支援したことは、既に述べたとおりですが、後述する新宮中学ストライキ事件の報道に対して社長と意見が合わなかったことが退社の理由とされています。

ところで、私は「▽▲▽」印の作品「寝ざめ」を、先の中野緑葉の回想文(「朱光土」)の紹介と共に、学術雑誌である「日本文学」に、「佐藤春夫の処女戯曲―「寝ざめ」発見に寄せて」で発表し、まだご生存であった佐藤千代氏の許可を得て、作品「寝ざめ」と「洛陽日記(二)  春夫」とを全文紹介しておいたことがあります。その後、臨川書店から出ていた「佐藤春夫全集」に当然収録してもらえるものと想像していました。しかしながら、「洛陽日記」の方は、「春夫」という記名があったからか、収録されているのに、「寝ざめ」は採用されず、注釈で、一部で春夫の戯曲であるという説もあるがと軽くあしらわれてしまいました。熊野と言う地方で刊行されていた雑誌などの無名の者の回想は、取るに足らぬものと判断されたのかも知れません。不本意な気分で読んだ印象は、忘れ難いものがります。私は、これまでも地方の雑誌の内容を発表してきましたが、軽くあしらわれた体験を、再三してきたものの、「日本文学」への拙稿に対して、反論や異議申し立てを受けたことはありません。暗黙の了解が出来ていたと解釈していたのでしたが、後味の悪い「寝ざめ」紹介になりました。あえて想像すれば、「転宅」「転任」へと推測を広げ過ぎたことが、不信を招いたかとは反省します。ただ、停学中の春夫の執筆姿勢からすれば、旺盛に展開したと考える方が自然です。後に述べる象徴的な作品「若き鷲の子」の詩作品の背景を考える上でも、首肯できることでもあると思います。

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