館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」58

熊野実業新聞への投稿
「熊野実業新聞」は、明治33年3月、社主津田長四郎、主筆浅田江村で発行されました。それより先、明治29年12月に社主宮本守中、主筆山田菊園で「熊野新報」が発刊されていて、新宮町内の政治的立場を二分した「改革派」を標榜していたので、それに対抗する意味で旦那連の代表として「実業派」を結集しようとしたものでした。

町内の有力者であった津田は、戸長の座に就いたこともあって、県の役人や警察所長が赴任すると、まず津田の所に挨拶に来るというほどの隠然たる力を持っていました。実業新聞は中央から有力な記者を高給で招聘し、文化面では政治的な立場とは異なって、広くその向上に貢献しました。浅田江村(彦一)は、のちに中央の代表的な総合雑誌「太陽」の編集長を務めたほどです。大正2年9月号の「太陽」は、「大逆事件」の弁護人平出修の小説「逆徒」を掲載したために即発禁となって、削除された本が出回ったようですが、このほど篤志の収集家が「逆徒」掲載の「太陽」を、新宮市立図書館に寄贈、その編集人が浅田になっています。

実業新聞は隔日刊でしたから、新報紙より早く明治42年5月22日付で「二千号記念号」を出し、大々的なイベントとして行われたのが、木ノ本―新宮間の記念のマラソン大会です。対抗の新報紙も「選手経過の沿道は流石目新らしき競技とて観覧者を以て堵(かき)を築き近来の賑わひなりき」と取り上げる程の盛り上がりぶりでした。優勝者は賞金30円がメインで各スポウンサーからの諸景品です。水着や名刺100枚、4分金指輪1個、ビール2本、仁丹15袋など19品目が並んでいます。

年令制限などもあり、参加を募ったところ84名が応募、新宮―三輪崎間で予選が行われ、15名に絞られました。予選で力を発揮したのは新宮中学の4年生の生徒、誰もが本選の優勝候補と噂しあったということです。

大会当日5月23日、まさに「南国の五月晴れ」、午後1時木本町亀齢橋をスタートしました。行程6里12町(約25・3キロ)、ゴールは速玉神社境内、途中の熊野川にはまだ橋が架かっていないので、各自小舟と船頭を用意すること、という条件も面白い。期待が高かった新宮中学生は出発間もなくの有井村で落伍、池田の渡し場では、車夫と郵便脚夫とが接戦、結局は車夫が制しました。タイムは1時間47分8秒、2位とは25秒の差でした。3位も郵便脚夫でした。

この大成功の大会に「マラソン」という名称を与えたのは、さすが時勢に敏感な新宮人の誉れとでも言えましょうか。僅か2ケ月前、神戸・大阪間のマラソン大会が「マラソン」呼称の最初と言いますから。やがては「長距離競走」の呼称に戻ってしまうようなのですが。

さて、この「熊野実業新聞」に、春夫はいままでも短歌をはじめとして幾つかの作品を投稿しています。それは、和貝夕潮を介してのことが多かったようですが、無期停学中も投稿していました。

春夫は、後年の『詩文半世紀』に書いています。
―「無期停学も、またわたくしにとつては大した恩恵であつた。わたくしはこれによつていよいよ文学志望の志を固め、おれはもう上級の学校などへは行けない。行かなくてもよい独力で自分の文学をやる。」

この春夫の決意は、ふたつの行動に結びついたものと考えられます。ひとつは地方新聞への作品の投稿、ひとつは10月末頃の生田長江を頼っての上京です。

三たび、中野緑葉の「熊野歌壇の回顧」(「朱光土」3号・大正12年8月)から、次の記述が重要です。

「『浜ゆふ』の第三号・・・・(ママ)私共の期待した第三号は、其後経済上の関係で出版されなかつた。私共の落胆は非常なものであつた。然し熊野歌壇の意気はこの時も衰へず、和貝氏の宅で開かれる各週の短歌会の結果を『白烏吟社詠草』として、新宮町で発行する熊野実業、熊野新報の両新聞に掲載されて、僅かに人々の発表慾を満たした。この頃すでに人々は、中央文壇に、色んなものを投稿し初めたが、その主なるものは、やはり短歌であつた。奥栄一君は『文庫』に佐藤春夫君梅田酉水君下村悦夫君それに私は『趣味』に。・・・・・・奥君は『文庫』へは詩も投稿して居た。かくて和貝氏の巣に育てられた雛は、みなちりぢりにみづからの思ふところへと羽をあげて飛んで行つた。佐藤君が脚本や詩を、下村君はが小品や詩を、奥君が評論などを書き初めたのは、それから以後間もなくであつたらう。佐藤君が脚本の処女作『寂(ママ)ざめ』を下村君が短篇小説(小品体)の『孤独』を熊野実業新聞に発表したのもこのころであつた。」

明治42年10月の「熊野実業新聞」を眺めていると、中野が言う通り、春夫の脚本「寝ざめ」(「寂ざめ」は誤植であろう)、下村悦夫の「孤独」が「愁人」のペンネームで載っています(9月28日付・30日付・10月2日付)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です