館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」53

春夫の講演会登壇事件(一)
春夫の反明星の色彩が濃かった「趣味」歌壇への投稿は、明治41年9月から始まって、42年に入っても続けられたようです。「新声」への掲載も41年12月、42年1月に見えます。

「趣味」「新声」ともに、明治の末期を代表する文芸総合雑誌ですが、「趣味」は文学史的に画期な働きをしたわけではないですが、「早稲田文学」の姉妹誌とされ、ロシア文学の紹介や自然主義作家に誌面を提供するなど、新文学の推進の一翼を担っていました。

生田長江は「趣味」の明治41年3月号に力作「自然主義論」を発表していて、自然主義系の論客としても名を知られるようになりました。一方「新声」も、地方支部などを作って、新文学勃興に力を尽くし、現在まで続く「新潮」の先駆けとなりました。

一方「新声」も、地方支部などを作って、新文学勃興に力を尽くし、後の「新潮」の先駆けの役割を果たしました。

明治42年4月、佐藤春夫は奥栄一らとともに新宮中学の最終年、5年生に進級しました。前年、第8回生として入学していた春夫の弟の夏樹は、2年級に進みました。この年、学校側は夏季休暇の延長と冬季休暇の短縮を決定、夏期休暇を57日間とし、冬季休暇を6日間としました。生徒などに蔓延し始めていた脚気への対応からです。4月27日の第9回の開校記念日は、新しく出来た演武場の竣工式を兼ねていて、式後演武大会が行われました。

春夫は、5月28日に校友会第18回談話会で、小山内薫の「月夜蟹」(月夜には蟹は月光を恐れてエサを漁らないから、肉が付かない、痩せて身のない蟹。中身のない事に喩えられる)を朗読し、「抑揚頓挫ある例の好口調、満堂を酔はしめた」と会誌6号は伝えています。この時、奥栄一も「呪はれたる子」を朗読しています。

春夫5年生のこの夏、明治42年8月21日、新玉座(あらたまざ・現熊野速玉大社横手・角池前)での講演会に登壇し、それが新宮中学から無期停学処分を受ける理由になったことは有名で、春夫自身の作品でも種々回想されていることです。しかしそこには記憶違いやデフォルメも成されているようで、正確なところはやや曖昧な部分を残しています。当時の新聞記事などを手掛かりに、正確さを期してみます。

それより先、会場になった劇場新玉座について少し触れてみます。
新宮城下は浄瑠璃(じょうるり)が盛んで、芝居小屋が川原に臨時に作られ、旅役者の興行も珍しくありませんでした。株式組織で「新玉座」が相筋(あいすじ)の地に開業するのは、明治30年1月、新春に開業したための命名。木造で間口8間、奥行き15間、左右と正面三方に2階桟敷。階下中央は土間、天井は張っていなくて荒削り、花道がなければ倉庫のような感じの建物だったと言います。回り舞台はありましたが、回転には手間取ったようです。電灯のない頃はランプと百目蝋燭(ひゃくめろうそく・ひとつが重さ百匁もある大蝋燭)を使用。名古屋、三河方面からよく役者がやってきました。地元の芸妓と一緒になって料亭を開いた者もいます。小津安二郎監督の名画「浮草」のエンドは、旅芸人が多気の駅舎で伊勢から「新宮」へ行くことを暗示して終わります。

この劇場の名を後世に残したのは、与謝野寛(鉄幹)らが講演した時、中学生佐藤春夫が飛び入り演説をして、物議を醸したことによる、と言ってもいいのです。

この日8月 21日、与謝野寛やニーチェの翻訳で著名であった新進評論家生田長江(いくたちょうこう)、画家石井柏亭(はくてい)に交じって春夫は2番目に登壇しています。講師陣の到着が遅れて、引っぱり出された気配はあるといいます(和貝夕潮の「熊野文壇の回顧」・「熊野誌」7号・昭和37年3月)。夏のこととて開会予定の7時が8時過ぎになり、閉会は午後11時前になったようです。入場料10銭を徴収、聴衆は200名ほどであった(「熊野新報」紙。生田長江の記録には300名余とある)と言います。

この日の演題と講師名は次の通りです。―「一、霊の反抗(鈴木夕雨) 二、偽らざる告白(佐藤春夫) 三、熊野と人物(大川墨城) 四、天下泰平論(沖野岩三郎) 五、文芸と女子教育(与謝野寛) 六、裸体画論(石井柏亭) 七、ハイカラの精神を論ず(生田長江)」

もともとこの講演会は、「熊野夏期講演会」と銘打って、8月22日から5日間瑞泉寺で予定していたものが、募集していた応募者が少なかったために、その前宣伝もかねて急遽企画されたものでした。

ところで、当の生田長江に熊野訪問の際の「紀州旅行日記」と称される罫紙12枚の簡単な日記が残されていて、近代文学研究の権威であった曽根博義によって、解読、解説が成されています(1999年刊「文学者の日記5」・日本近代文学館資料叢書第Ⅰ期)。この時、長江は新進気鋭の27歳。

それによると、生田長江、与謝野寛、石井柏亭の3人が、東京新橋駅を立ったのが、8月10日午後7時半、翌11日午前5時過ぎに名古屋着、「乗換の四十幾分はプラットホームに立つて、市街の上を蔽ふいろいろの煙を見た。」とあります。石井柏亭は名古屋から別行動で、長江は寛とふたりで伊勢に向かい、伊勢神宮に参拝、「大神宮は思つたよりも気に入つた。其シンプルなところが今の心持に適するからであらう。」と記します。二見ケ浦を見て、鳥羽からは300トンくらいの大和川丸の船旅で大王崎の難所はさながら横になったまま。12日朝7時過ぎ木ノ本浦(現三重県熊野市)に入りました。「上陸するところを写真に取られた。」紀南新報記者、郡視学、小学校校長などが出迎えてくれたとあります。宿は「酒甚(サカジン)」、「町は一千戸と号す。」、午後鬼ケ城へ行こうとしますが波が高くて見合わせ、絵葉書をもらって、安着の便りを出しています。

13日には石井柏亭がやってきて、合流、船はずっと楽であったとのこと。午後2時から講演の第1回が開かれました。木ノ本では13日から18日まで滞在、その間「熊野林間講習会」をこなしました。

18日の記述に「午后、有馬の松原へ行つて見る。盥でもざるでも、大きな材木でも何でも皆頭の上へのせて運ぶ、妙な風俗だ。女がみな同じやうな顔をして居る。椿の葉で巻いて煙草を吸ふ。」とあります。熊野の「いただき」や「椿の葉の巻きたばこ」の習俗に関心を示しています。

19日は「瀞(とろ)八丁の景勝を探る積であつたのを、天気模様のあぶなげなるによつて思止まり、直ちに新宮へ乗り込むことにした。」とあって、従来、春夫の記述などにある、瀞峡散策は実現しなかったことが分かります。午後4時過ぎに木ノ本を立っています。「木の本より新宮に至る六里の間殆んど松原続きである。阿多波(阿田和が正しい)の辺にはそのまヽ日本画になりさうな景色がだいぶあつた。鈴木、大畑の両君を加へて、五台の人力車が松原の闇を縫つて行く。忘れられない印象を刻まれた。渡舟を渡つて新宮に入る。お嫁に来たやうな感じである。」と記しています。春夫が前年に「馬車」(明治41年8月「はまゆふ」)という詩を書いて、「松原の砂利の広路 / うねうねと松の根あまたわだかまる。」と記した同じ道で、そこは馬車も走っていました。「日本画になりそうな景色」とは、松林の間に海と川とが交差して見渡せる緑橋の辺りの風景でしょうか。

19日の宿は「宇治長」旅館。「その三階の見晴しよきところに陣取る。」とあって、近隣の三本杉遊郭や速玉神社などを見て回っています。

この相筋(あいすじ)の三本杉遊郭は、明治39年2月に開設されたばかりでした。
これまで、全国で公娼が設置されていなかったのは、和歌山県と群馬県とだけでしたが、明治38年12月、和歌山県議会は公娼設置を認める議決をします。遊廓と言われる、女性を一定の場所に囲い込んで売春を認める制度で、主に衛生面から必要を主張する者も多かった。そのことに、女性の人権擁護の立場から敢然と抗議したのは、田辺の「牟婁新報」で記者をしていた弱冠19歳の荒畑寒村です。横須賀の芸妓置屋の環境で育った寒村にとっては、女性の人権を蹂躙(じゅうりん)したこの制度は切実な問題で、「売らるゝ乙女」という哀切な詩を書いたりなどして、厳しく抗議しています。それに呼応して反対を表明したのは新宮の大石誠之助。県内設置3ケ所のひとつが新宮でした。相筋三本杉の地を推す「実業派」と、堀地の地を推す「改革派」の対立はあったものの、制度そのものに反対したのはごく限られた人たちでした。僧侶高木顕明などは、遊廓の入口で、ひとりひとりを説得しようなどと主張したほど、反対派は少数で、孤立した闘いを強いられたのです。公娼制度については、全国の社会主義者と言われた人々の多くも賛成で、むしろキリスト者らが反対したのです。

長江は、20日「熊野川の川端から熊野地の辺をぶらづいて帰り昼飯にする。河原の小屋掛町は大水が出ると直ぐに畳んで了ふのださうな。面白いロオカル・カラアである。」と、川原家(かわらや)の様も記しています。夏目漱石などに絵葉書を送っています。「晩に土地の色々な人が来た。沖野と云ふ日本基督教会の牧師さんや、大石と云ふ社会主義者も来た。」とあります。

木ノ本では、紀南新報社の記者で寛の主宰する「明星」の新詩社社友の鈴木夕雨(ゆうざめ・斯郎)がその世話役、新宮では熊野実業新聞社記者で同じ新詩社社友の和貝夕潮(彦太郎)が差配しました。木ノ本、新宮の講演会も名称は異なりますが、新聞広告には「同一基礎」とありますから、両町の文化人が後援していたのでしょう。

辻本雄一

 

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