館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」52

春夫の「革命に近づける短歌」(二)
春夫が「有力なる味方」と同調する内藤晨露は、明治21年新潟県長岡の生まれ、明治38年上京、前田夕暮の世話になり、雑誌「向日葵(ひぐるま)」の編集などを助けて、自身も歌集「旅愁」を刊行する傍ら、後に有名になる窪田空穂、高村光太郎、北原白秋などの歌集を刊行しました。自身の和歌は、カギカッコや、読点などを多用したのも特徴です。むしろ内藤鋠策の名が一般化していますが、有力雑誌「太陽」に発表されたこれらの歌は、「君、妻となれり」と題された一連24首で、目次にもはっきりと記名されています。他に「君妻となりし日知らぬ日の中にたづねて倦み果てしかな」などもあります。全体的に虚無的な心情が吐露されていて、それらの心情が春夫の心に響いたに違いありませんが、一方で、才気、野心溢れた18歳の年少歌人として上京したことなども、春夫は十分に認知し得ていたでしょう。

2年後、春夫は上京して、長岡と深い係わりを有する堀口大学と巡り合い、終生の友人となることは、まだ春夫の預かり知らぬところです。

春夫の「反明星」の姿勢は、「趣味」への投稿となって表れてゆきます。明治41年9月作の「蟋蟀(こほろぎ)よ秋の夜長を人恋へと枕の下に夜もすがら啼く」が窪田空穂の選に入った(「趣味」10月号)ことをきっかけに、同誌への投稿が次々となされてゆきます。11月には、「明星」は100号記念号を出して廃刊となります。12月以降には「文庫」に投稿、相馬御風(ぎょふう・早稲田詩社を起し、自然主義の論客としても活躍。早稲田大学校歌「都の西北」の作詞者としても著名、日本大学の校歌をはじめ、全国200を超える校歌を作詩)の選に入り、「新声」では前田夕暮の選に入っています。

自然主義の主潮を反映させて、短歌雑誌「創作」が、新人として活躍していた若山牧水を編集主任として、窪田空穂、前田夕暮、土岐哀果、石川啄木、北原白秋、吉井勇ら「明星」から出発した者らも加わって刊行されるのは、明治43年3月のことです。それより先のことだろうか、和歌仲間の下村悦夫が「思ひ出一つ」(「創作」昭和3年12月号)として面白いエピソードを記しています。

「それは、私が確か十六歳の秋?土地の銀行で給仕をしてゐた時分の事であつた。一日、銀行から帰つて来る途中、これも学校から戻りの佐藤春夫君にバツタリ出逢つた。佐藤君はその頃中学の四年か五年で、同じやうに歌を詠むところから、私はよく同君の宅へ遊びにいつたりしてゐたのであつた。/ 佐藤君は私の顔をみるとニツコリして、書籍の包みから一通の手紙を取出しながらかう云つた。/ 『下村君、牧水へ手紙を出したら、こんな返事が来たよ。これだ、読んで見給へ』 / それは一間に余る長い手紙だつた。私達はそれを拡げながら読み読み歩いた。その手紙には、短歌の革新が叫ばれ、平面描写といふ事が強調されてあつた。/  『牧水と云ふ人は中々話せるね。この意見には僕は同感だよ。君はどうだね?』 / 才気煥発で、それ故に可なり生意気だつた佐藤君は(佐藤君はこれを読んだら苦笑するだらう)熱心に読み耽つてゐる私の横から顔を突き出しながらかう云つた。 (中略) / 二人とも殆ど夢中だつた。先生の手紙を引ツ張りあひながら、先生のお作に就いての批評や感想や、さては新らしき歌の道に就いての意見などを語つて歩いた。」

明治42年1月創刊の『スバル』と掲載された春夫の和歌

「創作」創刊より先、「明星」への内部批判から、刷新して刊行された「スバル」は、森鷗外の命名とされ、鷗外の指導力の下、平出修(ひらいでしゅう)を支援者として明治42年1月に刊行されていて、そこにも春夫は投稿を始め、やがて上京して、春夫の本格的に文学的出発を成す重要な舞台となります。同じように上京した和貝夕潮も、平出修の法律事務所に勤務しながら、自身も作歌、石川啄木と併称されるほどの活躍をして、啄木とともに「スバル」編集の重要な働き手となってゆきます。「明星」に心酔していた和貝でしたが、「明星」はすでに廃刊、上京後は歌壇の趨勢を感取して、「スバル」への関与を深めて行くのです。

やや先を急ぎすぎましたが、明治42年1月、春夫は「熊野実業新聞」(1月28日付)に「この十日ほど」と題する9首を発表しています。

「 逆(さから)はであればおかしきこともなくたヾすぎ去りぬこの十日ほど
要するにわかき女と文学とすてなばこの世爾(これ)を讃(さ)むぜむ
好(よ)き敵(てき)を見失ひたるさびしさに如(し)くさびしさはあらじとぞ思ふ
こともなく見せたる面に秘(ひ)め置(お)きし深きうれひをしる人ぞ欲し
「諾」と云はん時にも「否」とこたふるはわが性(さが)にしてわが習慣(ならひ)なり  」

そのうちの5首からは、論争がしばし収まって、平穏ななかでの「反骨」の性情を持て余しかけている己の姿が窺えます。若い女性と文学への関心を失ったなら、この世にはもう賛美するものは何もないという、若者特有の奔放さも顔をのぞかせています。
和貝夕潮は教職を辞して、この年1月8日から熊野実業新聞記者として活動の場を移しています。この年3月新宮中学の新しい演武場(92坪)が完成し、第4回卒業式が新築なった演武場で23日挙行され、岡嶋輝夫ら25名が巣立っていきました。この日、春夫が記念撮影に誘い出したことは、すでに述べた通りです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です