館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(48)

下村悦夫と富ノ澤麟太郎 (二)
横光利一も翌年「富ノ澤の死の真相」(「文藝春秋」2月号)を書いて、自分の誤解であった旨の発言をし、非を詫びていますが、このことについて春夫の側には当時弁明めいた発言は皆無であるものの、春夫の横光に対する心情には、軽侮の念と、横光の人脈に対する確執は長く尾を引いたようです。

富ノ澤が亡くなった直後、「改造」5月号に「あめんちあ」が掲載されています。「あめんちあ」とは、急性の精神錯乱を現すラテン語です。タイトル後に「遺稿」とあって、記者がこの作品が力を入れた作品であると本人が強調して、旅費を前借りして紀州に旅立っていったと、注記しています。さらに「文芸時代」5月号は遺作「二狂人」を掲載するとともに「富ノ澤麟太郎氏の追憶」特集を組んでいます。なかの中井繁一の「私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎」は、埋葬前の麟太郎の遺骨を机上にしてこの稿を書いていると告白しています。母親の介在もあってか、春夫との関係がややギクシャクしている印象を受けます。中井は親友の富ノ澤麟太郎の「夢と真実」という作品集を、昭和3年限定150部で自費出版しています。

「文芸時代」という雑誌は、いわゆる「新感覚派」と言われる文学を推進したとされますが、その代表川端康成は「新進作家の新傾向解説―新感覚的表現の理論的根拠―」(同誌・大正14年1月)のなかで、麟太郎を新感覚派の一人として位置付けています。

一方で、春夫は大正14年1月「童話ピノチオ」を改造社から刊行しています。イタリアのコルローディ原作の「ピノッキオの冒険」のわが国での受容史においては、貴重な作品となります。春夫は「『ピノチオ』の移植―その訳者の一人として」を書いていて(昭和17年11月「イタリア」・「隨縁小記」所収)、それによると英語訳本を春夫に教えたのは、下村悦夫であったと言います。春夫は英訳本によってその存在を知り、童話雑誌の「赤い鳥」や「女性改造」に日本語に訳して連載してゆきます。そんな折、この書を春夫から借り受けた西村伊作は、まだ新宮在住の頃ですが、小学生の娘あやらに話して聞かせ、それを基にあやは絵本に仕立てて刊行されます(大正9年・キンノッツ社刊)。ちょうど伊作も住宅に関する本「楽しき住家」(大正8年・警醒社刊)がベストセラーとなっていた時期で、話題に拍車をかけたようです。だから、作品ピノッキオ受容は、英訳本を通して熊野・新宮の地で胎生、醸成されていったとも言えるのです。

ここまでは、一応、春夫の証言などでほぼ確定していることです。そこに、ピノッキオの話を下村悦夫に教示したのが、富ノ澤麟太郎であったという下村の長男麟太郎の証言があります(「父下村悦夫の生涯」・『熊野の伝承と謎』所収)。麟太郎の命名も、富ノ澤と父との交友から生まれたのだと母は話したということですが、富ノ澤の上京時期を勘案すればやや無理があります。しかしそれ以前、中井繁一とはすでに交友があった富ノ澤ですから、悦夫との接点も考えられるし、上京後の早い時期に、ふたりが交流の機会を持ったとも考えられます。ピノッキオ受容に富ノ澤麟太郎が絡んでいる可能性は十分にありうることです。下村は「富澤麟太郎」と表記していますが、「富澤」の方が本名であり、「ノ」を入れるのはペンネームです。下村悦夫と富ノ澤麟太郎との繋がりを示す資料は、下村の息麟太郎の証言が唯一のものなのですが。

そうすれば富ノ澤が熊野の地で病臥している頃、悦夫も新宮に住んでおり、病床を見舞ったことさえ想像されます。「紀潮雀」のペンネームで大衆作家として名を馳せ始めた悦夫は、新宮で口述筆記などをしながら創作をつづけていました。大正14年1月新たに創刊された『キング』に、下村悦夫名でその代表作となる「悲願千人斬」の連載を始めたばかりでした。

下村悦夫と富ノ澤麟太郎 (二)

横光利一も翌年「富ノ澤の死の真相」(「文藝春秋」2月号)を書いて、自分の誤解であった旨の発言をし、非を詫びていますが、このことについて春夫の側には当時弁明めいた発言は皆無であるものの、春夫の横光に対する心情には、軽侮の念と、横光の人脈に対する確執は長く尾を引いたようです。

富ノ澤が亡くなった直後、「改造」5月号に「あめんちあ」が掲載されています。「あめんちあ」とは、急性の精神錯乱を現すラテン語です。タイトル後に「遺稿」とあって、記者がこの作品が力を入れた作品であると本人が強調して、旅費を前借りして紀州に旅立っていったと、注記しています。さらに「文芸時代」5月号は遺作「二狂人」を掲載するとともに「富ノ澤麟太郎氏の追憶」特集を組んでいます。なかの中井繁一の「私の郷国に死んだ富ノ澤麟太郎」は、埋葬前の麟太郎の遺骨を机上にしてこの稿を書いていると告白しています。母親の介在もあってか、春夫との関係がややギクシャクしている印象を受けます。中井は親友の富ノ澤麟太郎の「夢と真実」という作品集を、昭和3年限定150部で自費出版しています。

「文芸時代」という雑誌は、いわゆる「新感覚派」と言われる文学を推進したとされますが、その代表川端康成は「新進作家の新傾向解説―新感覚的表現の理論的根拠―」(同誌・大正14年1月)のなかで、麟太郎を新感覚派の一人として位置付けています。
一方で、春夫は大正14年1月「童話ピノチオ」を改造社から刊行しています。イタリアのコルローディ原作の「ピノッキオの冒険」のわが国での受容史においては、貴重な作品となります。春夫は「『ピノチオ』の移植―その訳者の一人として」を書いていて(昭和17年11月「イタリア」・「隨縁小記」所収)、それによると英語訳本を春夫に教えたのは、下村悦夫であったと言います。春夫は英訳本によってその存在を知り、童話雑誌の「赤い鳥」や「女性改造」に日本語に訳して連載してゆきます。そんな折、この書を春夫から借り受けた西村伊作は、まだ新宮在住の頃ですが、小学生の娘あやらに話して聞かせ、それを基にあやは絵本に仕立てて刊行されます(大正9年・キンノッツ社刊)。ちょうど伊作も住宅に関する本「楽しき住家」(大正8年・警醒社刊)がベストセラーとなっていた時期で、話題に拍車をかけたようです。だから、作品ピノッキオ受容は、英訳本を通して熊野・新宮の地で胎生、醸成されていったとも言えるのです。

ここまでは、一応、春夫の証言などでほぼ確定していることです。そこに、ピノッキオの話を下村悦夫に教示したのが、富ノ澤麟太郎であったという下村の長男麟太郎の証言があります(「父下村悦夫の生涯」・『熊野の伝承と謎』所収)。麟太郎の命名も、富ノ澤と父との交友から生まれたのだと母は話したということですが、富ノ澤の上京時期を勘案すればやや無理があります。しかしそれ以前、中井繁一とはすでに交友があった富ノ澤ですから、悦夫との接点も考えられるし、上京後の早い時期に、ふたりが交流の機会を持ったとも考えられます。ピノッキオ受容に富ノ澤麟太郎が絡んでいる可能性は十分にありうることです。下村は「富澤麟太郎」と表記していますが、「富澤」の方が本名であり、「ノ」を入れるのはペンネームです。下村悦夫と富ノ澤麟太郎との繋がりを示す資料は、下村の息麟太郎の証言が唯一のものなのですが。

そうすれば富ノ澤が熊野の地で病臥している頃、悦夫も新宮に住んでおり、病床を見舞ったことさえ想像されます。「紀潮雀」のペンネームで大衆作家として名を馳せ始めた悦夫は、新宮で口述筆記などをしながら創作をつづけていました。大正14年1月新たに創刊された『キング』に、下村悦夫名でその代表作となる「悲願千人斬」の連載を始めたばかりでした。

 

 

『キング』表紙と掲載の「悲願千人斬」

大正14年3月17日、下村悦夫に請われて作製された揮毫17頁にわたっての金縁のアルバム帳を仕上げた佐藤春夫。それは、富ノ澤麟太郎の悲劇的な死からほぼ1ケ月後、新開地の徐福墓畔邸でのことでした。その時、春夫も悦夫も、麟太郎への思いを共有していたのではなかったか、春夫にとっても神経衰弱の憂いからひととき開放されたものとなったのではなかったか、とは既に述べた通りです。
新開地の徐福墓畔邸は、そこから広がった春夫を巡ってのさまざまな人脈を考えると、春夫の文学的な営為にも多くの蔭を落とす場所であったとも言えるのです。春夫は「徐福さまは幼なじみの事」という文章で、「自分の故郷は古の熊野神邑の地、和歌山県新宮市である。(略)秦徐福墓と称するものがある。(略)自分が能火野人と号し,又、家在徐福墓畔という印を用ゐるのはこのためである。」と述べています。「家は徐福墓畔に在り」と読ませるのでしょう。ちなみに、「能火野人(のうかやじん)」の「能火」は「熊」を分割したもの、つまり「くまのびと」の謂いであるのです。

 

『キング』表紙と掲載の「悲願千人斬」

大正14年3月17日、下村悦夫に請われて作製された揮毫17頁にわたっての金縁のアルバム帳を仕上げた佐藤春夫。それは、富ノ澤麟太郎の悲劇的な死からほぼ1ケ月後、新開地の徐福墓畔邸でのことでした。その時、春夫も悦夫も、麟太郎への思いを共有していたのではなかったか、春夫にとっても神経衰弱の憂いからひととき開放されたものとなったのではなかったか、とは既に述べた通りです。新開地の徐福墓畔邸は、そこから広がった春夫を巡ってのさまざまな人脈を考えると、春夫の文学的な営為にも多くの蔭を落とす場所であったとも言えるのです。春夫は「徐福さまは幼なじみの事」という文章で、「自分の故郷は古の熊野神邑の地、和歌山県新宮市である。(略)秦徐福墓と称するものがある。(略)自分が能火野人と号し,又、家在徐福墓畔という印を用ゐるのはこのためである。」と述べています。「家は徐福墓畔に在り」と読ませるのでしょう。ちなみに、「能火野人(のうかやじん)」の「能火」は「熊」を分割したもの、つまり「くまのびと」の謂いであるのです。

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