館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(44)

先輩・中村楠雄のことほか
すでに触れたように、前回紹介した写真の主のひとりの中村楠雄は、春夫にとっては「お下(しも)屋敷」の、大前俊子の姉の家の集まり仲間。先輩の「優等生」というところ。やがて大前俊子を妻として迎えるのです。

楠雄は明治24年12月23日和歌山市に生まれています。春夫とは、学年こそ違え、半年の開きもありません。その後3歳の折、奈良県十津川村大字平谷の藤井富次郎に養子として入り、尚武の精神「十津川武士」の感化を受けたと言います。平谷の小学校、高等小学校を経て、藤井が新宮に移住するのに合わせて、新宮男子高等小学校に転校、36年4月新宮中学に入学しています。

41年3月新宮中学を卒業、翌42年志を立てて上京、9月海軍主計委託生として東京高等商業学校に入学、大正2年7月同校を卒業、海軍少主計に任ぜられています。「主計」とは、軍の会計、給与を取り扱う部署です。さらに海軍経理学校でも学び、海軍中主計となって軍艦笠置主計として従軍します。大正5年12月海軍大主計に昇進、その前年の4年に大前俊子と結婚しています。5年から8年までは軍艦最上に乗船、俊子ら家族の居住地は軍艦の寄港地と関係してでしょう、広島県の呉、長崎県の佐世保と移っています。

大正8年秋、シベリア出征、9月14日付敦賀から発せられた養父宛てのウラジオストックに向かう心意気を述べた書信が残されていると言います。その後に、ニコラエフスク(尼港)で、ロシアの過激派パルチザンに襲われて700余人の邦人が殺害され、130名ほどが捕虜となりました。パルチザンの襲撃は、休戦協定のために派遣されたロシア人を日本側が殺害したことに端を発していました。日本側が一時停戦に応じながら、パルチザンを襲撃したりしたことから、捕虜全員を殺害してパルチザンは撤退したのです。ロシア側は責任者を処分しましたが、日本は責任を負うべき政府の実現までという口実で、北樺太を占領しました。そんな動きの中で中村楠雄は大正9年3月13日30歳で命を落としてしまうのです。

6月24日貴族院衆議院の議院内広場での追悼祭儀には、遺児一郎、母楠枝子、親戚代表で中口光次郎、甥の江田秀郎が列席しました。母校の新宮中学では7月13日追悼会を、8月3日には新宮町公会堂で葬儀が執り行われ、町始まって以来の追悼会だと言われました。しかし、いずれの会にも妻俊子の出席はかないませんでした。新宮に引き取られた2人の遺児たちも母親との同居はかなわず、祖母の手に委ねられました。

俊子は結核を患ってすっかり体調を崩しており、その後回復をみることなく、楠雄のもとへ旅立ってゆくのです。「君風格清秀識慮超卓ニシテ至性アリ 義ニ勇ニ情ニ厚ク精悍ノ気眉宇ニ溢レ談忠孝節義ノ事ニ及ベバ意気激越声涙倶ニ下リ躬親シクソノ境ニ立チ ソノ事ニ接スルノ概アリ」とは、恩師小野芳彦が記す人物評です(大正9年3月刊冊子「新宮第二尋常小学校編 新宮町戦没者略歴」より)。俊子も初めての結婚生活には躓(つまず)いたものの、再婚して新しい家族を築き始めた折の悲劇だったと言えます。

現在残されている中学時代の春夫の記念写真で、早くから知られていたものに、明治42年3月23日撮影の岡嶋輝夫の所蔵であったものがあります。この日、新宮中学の第4回卒業式が新築なった演武場で行われ、25名が卒業しています。終了後、春夫の呼びかけで久保写真館に向かい卒業記念として撮影したものと言います。中村楠雄らと記念撮影したものと「書き割り」の背景などはほぼ同じ。左側の正面を見据えて一人立つ和服で下駄ばきの春夫がひときわ目立っていますが、この日の主役は制服、制帽姿で中央に座る、正面を見据えた岡嶋輝夫と腕組みをしてやや斜め左上を眺めている鈴木三介の第4回卒業生で、右端の春夫と左端で春夫と同じ私服の和服姿で横向きの奥栄一とは、見送る立場です。この4人は、一緒に読書会などもした仲であったようですが、卒業間近かになると、「春夫君の天才ぶりはもうわれわれとは別世界」にあり、「文学について語る構えも寸分の妥協も許さなかった」と岡嶋は先の追悼文で述べています。

ところで、熊野の風景写真の祖ともいえる久保昌雄の「熊野百景」という上下2巻の立派な写真帖は、息子の久保嘉弘(よしひろ)に受け継がれて、何回か改定を加えられていますが、嘉弘は新宮中学の5回生で、春夫と同級になった人で幼馴染(おさななじ)み、だから春夫も少年時代から写真に興味を持っていたともいえます。
「わんぱく時代」を執筆するに当り、春夫は「はじめこの物語を草するに当って、年久しくそむいている故郷の地の遊び場を思い出す資料にと、町の写真師で中学時代の親友K君を煩わして、僕はむかしの土地を二十カ所ばかりも指定して撮影してもらった」と記しています。

最近、それらの写真22葉、内8葉が小浜(おばま)へ超える道や丹鶴姫の祠(ほこら)など、作品に十分に活かされたものが見つかりました。日和山からの眺望のものもありました。さらに、明治期の思い出地図1葉も含まれていました。K君こそ久保嘉弘です。また遡(さかのぼ)ること、昭和11年の『熊野路』上梓に際して、地域の風物とその地域出身の画家とのコラボとしての企画された、小山書店の「新風土記叢書」のシリーズで、春夫は画家ではなく久保の風景写真を採用しているのです。

←(神倉神社集合写真)
中学時代の春夫の写真で、明治42年4月撮影の鬼が城(現三重県熊野市)の奇岩を背景にしたクラス写真があります。遠足で訪れたのでしょう。後列の左端に腕組みして立っています。写真裏に「厳然トシテ立ツ春夫」と書き込みがあります。また、最近発見されたものに、明治41、2年頃の神倉山登り口の石段に座り込んでのクラス写真があります。留年後のクラスです。石段脇の灯篭は現在のものと変わりはないものです。この頃の神倉神社は、例の神社合祀の余波を受けて、廃所寸前に追い込まれ、「お灯祭り」も行われていなかったようです。速玉神社に合祀され廃社となっていた神倉神社が復活の許可を受け、小祠を建立、遷座祭を行ったのは、大正7年2月5日のことです。また、これは会誌に紹介されているものですが、明治43年3月の卒業生一同の記念撮影されたものがあります。

時代的にも誰もが写真撮影をしたり、被写体になることも日常的ではない状況の中で、中学時代の春夫は、写真への興味も大きかったと思われます。被写体としての自覚も早くから有していたように思われるのです。

辻本雄一

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